拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

歴史を旅する 中津番外編

中津から少し離れていますが、前回の記事でご紹介した宇都宮鎮房の本拠地、城井(きい)谷に足を伸ばしてみました。

 

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城井谷・・・。何となく険しい山中のうら寂しい山里のような所をイメージしていましたが、意外にも平地が広く、今でもそれなりに大きな集落が広がる一帯でした。平べったい谷の両側に山が迫る地形は、朝倉氏の居城だった越前一乗谷とよく似ています。朝倉氏は一乗谷に戦国時代屈指の城下町を作り、いざ戦争になったときには両サイドの山に籠もって戦う体制を取っていたようですが、城井谷も同様であったと思われます。

 

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谷をどんどん奥に進んでいきますと、少しずつ山深く険しくなっていき、城井谷の最終防衛拠点である城井ノ上(きいのこ)城に入ります。ここまで来るとスマホの電波も届きません。ただ、どんな地にも「有志」はいるもので、宇都宮鎮房を慕う地元民があちこちに写真の幟旗を立てていました。多分お金を少しずつ出し合って頑張っているのでしょうが、「宇都宮?だれ?」が世間のほとんどでしょう。寂しい山中で数少ない「同志」を見たようで、嬉しくなりました。

 

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城の入り口からして物々しい。「三丁弓の岩」と呼ばれる場所で、「弓の射手三名おれば敵一兵も通さず」というところから名付けられたようです。ちなみに写真の右側は川が流れていますので、城に入るにはこの岩横の狭い細道を通るしかない。確かに弓の名手にこの巨岩に潜まれては、攻める側は通り抜けるのに苦労するでしょう。

 

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城門もひどいです。人がようやく一人通り抜けられるかといった狭さに加えて、抜けたら抜けたで、その先は四つんばいにならないと進めない急な坂。いかに大軍で攻め寄せても門がこの有様では、城内に入るためには一人一人くぐり抜けるしかありません。そして通り抜けたら「殺」、通り抜けたら「殺」って具合に、一人一人やられてしまうことでしょう。

 

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門を過ぎたら、中は結構広い。相当数の兵を留めておくことができそうです。黒田軍はこういう厄介な場所で戦わなければならなかった。もし自分が黒田の大将なら、圧倒的有利な攻め手であってもこの城で嫌になって、「もう武士こりごりっす」とか言って辞表を出して、農民に天下りしそうです。

城は、この奥までずっと続いているのですが、このまま進んでいくと下手すると遭難するのではないか(スマホも通じませんし、)と恐怖を感じましたので、さっさと引き返しました。

 

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宇都宮一族のお墓は、麓の天徳寺というお寺の敷地内にありました。現代も大変生きづらい時代ですが、彼らの時代は「生き」づらいとか、そんな生きることが前提のレベルでは全然ない。「生きる」か「死ぬ」か。油断するとすぐに強制的に死んでしまいますからね。大変さが桁違いです。だから私は、このような時代に英雄として後世にまで伝えられる人々をもちろんすごいとは思うのですが、そうでなくても、このすさまじい狂気のような時間を何とか必死で駆け抜けていった人達を純粋に尊敬したい、ねぎらってあげたいと思うのです。

 

今を生きる人達もそのほとんどは、死んだら名も残らず、すぐに忘れられてしまうことでしょう。そのことが分かってはいても、それでも必死に生きるしかない。それが人の一生というものだと思います。ただ死んで時間が経てば、自分の成したことの多くは何も残らない。そこに虚しさを感じることも確かにあります。

しかしながら、忘れられたはずの過去の時間が、今を生きる自分自身に強く響く瞬間がある。今を生き抜く力強いエネルギーになることがある。私がこのような場所を訪ねたくなる理由は、こういうところにあるのかもしれず、そのことを未来の人達に託したいという思いがあるのかもしれません。時間のリレーとでも言えばよいのでしょうか。

「有志」の方々が立てた幟旗は、宇都宮一族が駆け抜けた時間が、それが十分に意味をなすものであったということを示しているのだと思います。