拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

阿蘇であそぼう

f:id:Tatochi:20201129111703j:plain

阿蘇をぶらぶらしてみました。といっても「山」の方ではなく、「谷」の方ですが。阿蘇は、山はもちろん素晴らしいのですが、あえてそこに近づくことなく、雄大な山々を遠くの眺めに収めるというのも、なかなかに良いものだと思いました。

 

f:id:Tatochi:20201129111718j:plain

f:id:Tatochi:20201129111814j:plain

今も噴煙をあげる火山群(上の写真。個人的には左のギザギザした根子岳が好き)とそれらを輪っかのように囲む外輪山(下の写真)。

 

今の阿蘇山は、噴煙を上げる中岳にもロープウエーで登って火口を覗いたりできますが、阿蘇山が本気を出したら、遠く山口県まで火砕流を流し込みます。この長閑な光景は、数万年前に確かにこの地上に現出した灼熱の地獄、その名残であることは間違いないのですが、ちょっと想像つきませんよね。

でも、いずれまたきっと、いつか本気を出す。そうなったら、この阿蘇谷のおだやかな風景は、ドロドロに溶けたマグマと一緒にあっという間に吹き飛ばされて、九州の大部分はすさまじい量の火砕流に何もかも飲みこまれて、西日本一帯はメートル単位の火山灰で立ち所に埋め尽くされて、また日本の歴史は一からやり直しです。

大自然諸行無常は、スケールが違いすぎる。まあ地球側の視点から見ると、「後から勝手に地球上にウジャウジャ湧いてきて、あちこち勝手に住みついたのは、お前ら人間の方じゃねえか」となるでしょうから、文句は何も言えません。仕方がないので、阿蘇の温泉にのんびり入って、寛いでやりました。

 

くだらない余談ですが、大分に来て思ったことの一つが、別府はそのうち爆発するんじゃないかということ。1万年くらいは後でしょうが。

理由は、あの噴気の数の異常な多さ。我らが大分県は、呑気にも「おんせん県おおいた」「日本一の湧出量」などと自慢して、観光客に金を落としてもらうよう抜け目なく策を弄していますが、別府の膨大な数の噴気は、もしかすると人類有史以降、未だ経験のない超絶噴火の予兆なのではないか?

この「別府爆発説」を大分の職場で披露したら、案の定大笑いされました。まあ仕方がないので、別府の温泉にものんびり入って寛いでやりましたが、やっぱりいい湯だねっ。1万年後に地獄が来たとしても、今は別府は天国ですなあ。

 

f:id:Tatochi:20201129111832j:plain

先の地震で崩壊した阿蘇神社は、再建までもうしばらく時間がかかりそうです。参拝は斜め後ろから、工事現場に祈るような感じでした。私自身は、神様にお祈りするのではなく、神様のためにお祈りをしました。元の状態になるまで、もう少し我慢してねと。

神は人の願いを叶えてくれるかもしれないが、自らの社を作ることはできない。人は神に願いを聞き届けてもらうために、神のために社を作る。神と人とは、「君臨する神」→「ひざまづく人」といった一方的なものではなく、神にとっても人は必要な存在であり、持ちつ持たれつの関係であるといえるのかもしれません。信仰する人が消えると、神もまた消える。社が建ち続けている限り、神は人々と共に生き続ける。

 

f:id:Tatochi:20201129111849j:plain

地震の傷跡は、ほかでもまだ生々しい。揺れた瞬間、この山が崩れて線路と道路を押し流し、山の反対側の深い谷に掛かる橋をも崩落させて、たまたま通りかかった大学生を車ごと川に押し流しました。正規の捜索が終了しても行方不明のままで、ご両親が何ヶ月も経ってから、まさに執念でご遺体を発見されたニュースを見て、震えるような気持ちになった記憶があります。崩落した橋は、震災遺構ということでその当時のまま残されていましたが、そちらを写真に収めようという気持ちにはなれませんでした。

人は自らもその一部として、最後は自然に運命を託すしかない。美しくもあり厳しくもあった阿蘇の自然は、私を少しだけ厳かな気持ちにさせてくれました。