拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

新聞に未来はあるか?

先日、毎日新聞が「中小企業」になるというニュースをみて、驚きました。

実際のところは資本金の減額による税法上の変更に過ぎないようですが、老舗の全国紙が、なりふり構っていられない状況になっているのだろうと思われる点で、いろいろと考えさせられるニュースでした。

 

毎日新聞に限らず、新聞はどんどん売れなくなっているようですね。私も数年前まで宅配をしてもらっていましたが、引っ越しを機にやめました。今でも時々コンビニとかで買ったりはしますが、1年に何回あるかといった程度まで減りました。私自身も、新聞が売れなくなった原因の一部です。

 

それでも新聞という媒体には愛着がありますし、このまま滅びてもらいたくはない。何とか下げ止まってほしいとは思います。ただ、現時点で自分が読むのを再開しようとは思わない。なぜなのだろう。

 

【理由1 多い。1日にあの分量は読めないよ~。】

そりゃ自分が必要なところだけ、時間の範囲で読めばよいのだろうけど、平日の大部分は仕事だし、それ以外に観たいテレビや読みたい本もある。睡眠時間を削ってまで新聞読もうとは思わないしなあ。でも、そうなると読み残しだらけになって、なんだかすごくもったいない、申し訳ない気になってくる。金払って、なぜ日々残念な気持ちを味わなければならないのだろう。

 

【理由2 大きい。読みにくいよ~。】

時間が取れないから、通勤電車の中で読もう。・・・と思っても、満員の狭い車内であのデカい紙面を広げるのは容易ではないし、まわりにも迷惑だ。せめてA3、できたらA4。ペラッと軽~くめくれるようにしてくれたら、仕事の行き帰り楽に読めるのに。

あと同じ内容の記事を「1面」「政治面」「社会面」と散らかすのはやめてほしい。狭い車内で、ただでさえ邪魔で大きな紙面を、周りに気遣いながらこれ以上ガサガサするのは嫌だ。(新聞社の方は「今はタブレットでも読めるので」とか言われるかもしれないが、新聞をタブレットで読むくらいなら、普通にネット記事の方に行ってしまう。新聞=紙だからこその価値があると思う。)

 

【理由3 読んだらテンションが下がる。日本や地球の滅亡は近いかもしれない。】

社会問題や事件を掘り下げるのが新聞の役割でもあるので、仕方がない面はあるのだが、読んだら一様に「日本はなんてダメな国なんだ」とか、「環境問題で世界は滅んでしまう」とか、思ってしまう。問題提起は鋭くても、解決案は非現実的なペラペラなことしか書かれていないから、なおさらだ。環境問題とか、もう「自分自身の存在自体が環境汚染につながっているのではないか」と考えてしまい、非現実的なペラペラより、自分で具体的に実行できる環境保護のために、膨大な紙やインクを使っている新聞を読むのをやめようと思うのである。

たぶん新聞社もそこは意識しているのか、テンション上げ系の「いい話」的な記事を掲載しているけれど、これがもう昔の小学校の道徳の授業的な、毎度「またこれか」といった感じの陳腐なものばかり。ありきたりのものをそのまま適当に記事にしているだけで、深さがまるでない。テンション下げ系記事でみせる、時には単なる揚げ足取りではないのかと思われるような深掘りは、上げ系記事には弱い。

 

【理由4 論調がいつも同じ。右は右、左は左、カネはカネ。】

世間の考えがこれだけ多様になっているのに、新聞の論調は社ごとに同じ傾向で変わらない。ワンパターン。読者によって右翼的傾向、左翼的傾向はあるだろうが、例えば「天皇制については右側だが、環境問題は左側」といった人もいるだろう。無数に多様な考え方があるのに、一民間会社に過ぎない新聞社が、偉そうにワンパターンな考えを押しつけているように読む側は感じてしまう。

今どき新聞を読む人は、自分の考えを自分で決めることができる人の方が多いであろう。これからの新聞にできることは、会社の偏った主張ではなく、考え方の様々なメニューを提示し、読者はそれを参考にオリジナルを固めていくといった方向に進まなければならないのではないか?(実際、複数紙読んでいる方も多いわけですから。)

たとえば「読売」「朝日」「毎日」「日経」は、別会社のまま新聞を1紙共同発行する。「読売」以外は「日」が入るので、「読日」新聞でどうだろう。どうせ読者は各社とも減っているので、客観的事実についての記事は4社が持ち回りで書いて労力を節約する。社説や主張のような記事は、週に1回4社が同じ紙面でそれぞれの意見を激突させる。たとえば「憲法9条」では、「読売」と「朝日」「毎日」がガチンコ勝負。そこに「日経」が「で、経済的には?」とか全然違う視点を投げ込んできて、「9条とカネぇ??」と意表を突かれた3紙の論調は大混乱…。こんなのだったら、楽しく読むかもなあ。

 

テレビは分単位で視聴率を気にしているが、新聞は記事ごとの読率(?)を気にしているのか?

マンガ家は読者の反応が悪ければすぐに連載打ち切りの憂き目にあって食えなくなるが、記者は読者の反応が自分のメシに直結しているのか?

 

新聞はテレビやマンガと違い、時には傲然と世間と対峙してもらいたい気分がありますが、それでも「売れるためにはどうするか?」ということは常に考えておかなければならないと思うのです。どんなに正しいことを伝えても、真剣に記事にしても、読まれなければ伝えることはできない。そこらのバランスがとても難しいでしょうが、そこを何とかクリアしなければ、新聞は生き残ることが本当に難しくなってしまう。

 

私自身、結構長い期間宅配で新聞を読んできましたが、長年取っていた新聞社から、ただの一度もアンケートとか、感想とかを求められたことはありませんでした。新聞社から言わせると「読者からの意見はたくさんいただいている」ということになるのでしょうが、わざわざ自分から新聞社に電話をかけたり手紙を出したりするのは、ごく一部の限られた方であり、その意見が大多数を反映したものではあるとは言えません。

なぜどの新聞も、ニュースを追いかける手口で自らの読者を追いかけないのか?

なぜどの新聞も、同じような紙面構成で同じような4コママンガがあるのか?

なぜどの新聞も、休刊日が同じなのか?

なぜどの新聞も、読者数の減少を「活字離れ」のせいにするのか?

 

「読者の減少は、販売店の努力不足と、世間がバカになったせいである」

口悪く言うと、新聞社は内心このように思っているのではないかと勘ぐってしまいます。バカになった世間とそれでも向き合い、自らが果たすべき役割を自らの努力で必死に行なわなければ、読者はわざわざ金を払ってまで新聞を読むことはない。

 

最古にして、きっと今でも最良のメディアである新聞の底力に、大いに期待しています。私自身は、本当は読者に戻りたいのです。