拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

とよのくに紀行2~臼杵

大分県は、昔の「国」でいうと、豊後国、一部北部が豊前国。「豊の国」であります。

 

住んでみて良く分かります。

まず気候が温暖で、降水量も多からず少なからずのちょうどよい感じ。また大分の語源は「多き田」であるとの説があるくらいなので、昔から作物も良く取れたことでしょう。四国と海峡をなす海は漁場に恵まれ、「関サバ」「城下カレイ」はいまや超高級品。ちょっと山奥をドライブすれば、今でもイノシシやタヌキとバッタリ遭遇するので、肉が欲しけりゃ山に入ればよい。おまけに別府湾は瀬戸内海の西のへりに当たり、中央との物流の便も良い。「さんふらわあ」がお客さんをどんどん運んでくれます。

 

そんな豊かな豊後国の中心は、昔も今の大分市(府内)にありましたが、戦国大名大友宗麟は、大分が嫌いだったみたいです。宗麟はキリスト教など、新しいピカピカしたものが大好き。古くからの豊後の中心地であった大分では、昔から続く寺社やら、しきたりやら、新しもの好きには色々面倒くさい所だったのでしょう。面倒は息子や家臣に任せ、自身は大分から直線で20キロ以上南に離れている臼杵(うすき)に新たな本拠を構え、やりたい放題好きなこと(?)をしました。

 

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桜の季節の臼杵城

いま臼杵城は、大分県下でも有名な桜の名所となっていますが、戦国時代末期の九州平定戦で島津氏が攻め込んできた豊薩合戦でも、華のある一幕を描いています。

 

当時、丹生島城と呼ばれていたこの城に大挙押し寄せた島津家久の軍勢。大ピンチの大友方でありましたが、城に蔵していたリーサルウエポンが火を放ちます。

「国崩」と名付けられたポルトガルから来た当時最新鋭の大砲。当時の人々がそれまで聞いたこともないような大音響で咆哮を放ち、見る間にあちらこちらに火柱を上げ、兵士を木偶(でく)の人形のごとく木っ端みじんに吹っ飛ばしていく。

その火力のすさまじさは、弓や槍といった素朴な武器がメインであった当時の戦人(いくさびと)にしてみれば、「ナウシカ」で巨神兵が放った、わずか七日で世界を焼き尽くした業火のように感じられたかもしれません。攻め寄せた島津勢は、逃げ散るしかありませんでした。

 

今の臼杵城は、その丹生島城の場所に実質的に新たに城を作り直したもので、関ヶ原合戦の後に美濃からやってきた稲葉氏が殿様として入り、そのまま明治を迎えます。

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二王座歴史の道

大分県は江戸時代、天領日田と七つの藩(岡、臼杵、杵築、日出、府内、佐伯、森)に分立しており、城下町の雰囲気を残した場所がいまも多いです。

臼杵もそのひとつですが、県内の城下町は、どちらかといえば大分県民の大好きな大友氏のそれではなく、江戸時代によそ(主に今の愛知県、岐阜県)から入ってきた人々が作った空気が今も多く残っている感じがする。

 

私は九州人であり、ある程度九州各地、住んだり行ったりしていますが、大分県内は他の九州の地とは少し雰囲気が違っていて、九州にありがちな気質、たとえば中央に反抗的であるとか、そういう荒っぽい類いを是とする空気が、大分は薄いような気がしています。むしろ2年前まで私が住んでいたときに感じた、愛知県民の穏やかさなどに近い感じがする。

良く言えば「本流」の余裕があり、悪く言えば大義や気骨の感覚が薄い。このようなところは、もしかすると江戸時代の小藩分立の影響が、今も大分に残っているからかもしれず(七藩のうち、海賊OBの一人を除き、あとは全部愛知・岐阜がルーツの殿様です。)、他の九州人とは少し違う、今の大分県民にもいくらか通じる何かを、駘蕩とした県内各地の城下町の空気から感じ取ることができるような気がします。

 

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落ち葉の季節の臼杵城

 

臼杵といえば、石仏が有名ですね。

これは有名すぎるので省略しますが、県内あちこちに仏が彫られまくっているのが大分で、「崖のあるところ、すべて仏なり」といった感があります。臼杵ほど有名ではないけれど、自分のような者の目からみても、すごいと思うものが溢れている。後の回で、そういった仏様をご紹介することにします。

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有名「仏」は写真だけで…