JR豊後森駅は、福岡・久留米駅と大分駅を結ぶ久大本線の中間地点にあります。
この駅が所在する玖珠町は、緑の美しい静かな街ですが、かつて蒸気機関車の時代、この場所には国鉄豊後森機関区が置かれて、大変にぎわっていたそうです。
蒸気機関車は、水と石炭がなければ動きません。
今のように、博多から東京までノンストップで列車が走り抜けるなどあり得ない話で、途中で供給基地を作る必要がありました。静かな山里であった玖珠町は、久大線の開通と共に突然に多くの機関車を発車させる拠点となり、それを管理する大勢の従業員や家族が引っ越してきて大賑わいとなり、商店や飲み屋街、映画館ができて、出張の国鉄職員を泊める旅館もできて…。今では想像できないくらいの活気があったようです。
蒸気機関車っていいですね。
まあ、ススがいっぱい出たり、重労働だったり、よろしくない点も多かったと聞きますが、これぞ「機械」というか、人間の汗がしみこんだ結晶というか、もう使われなくなって保存されているだけなのに、まるで今も汚れたたくましい男の腕が働いているような、力強い蒸気の振動が伝わってくるような、そんなエネルギーと高揚感があります。
地元の人にとって、突然迷い込んだ夢の国での、おとぎ話のような時間だったのかもしれません。鉄道と蒸気機関車の登場によって突然沸き立った静かな山里の活況は、その衰退によって、また静かなもとの時間に戻りました。
40年に及ぶ「お祭り」の時間。廃墟になった機関庫から、その時間を惜しむかのような、かすかな汽笛の残響が聴こえてくるような気がしました。
この地の時間を、さらに遡ります。
江戸時代、この小さな地区に殿様がいました。瀬戸内海を暴れ回っていた「海賊王」村上氏の一族である来島(のち久留島)氏です。小さな大名として関ヶ原合戦の直後に入部し、明治まで存続しています。
「海賊が、なんでこんな山奥に?」と思います。誇り高き海の王であった当時の来島家当主も、おそらく同じ思いであったことでしょう。
私は、江戸幕府はとにかく海を恐れた政権だと感じています。鎖国しかり、大型船禁止しかり。そのなかには、来島氏や東の「海賊王」九鬼氏を海から除き、潮の香りの届かない山奥へ追い払ったことも含まれると思います。
海があるというのは、現代の感覚でいえば障害であり、車で行けないとか、高い船賃を払わなければならないといった点で不便な印象がありますが、昔の人にとって海とは、船を浮かべさえすればどこにでも行ける、言わば自分の家の目の前の浜は、すなわち世界の全てと繋がっている国際空港であったわけです。
日本本土に無数にある「国際空港」で勝手に行き来され、交易で力を付けたり、密かに最新鋭の兵器を蓄えられたりされてはたまらん!これが江戸幕府の思いであったでしょう。
たとえば信長や秀吉であれば、それでも海の外へ大いなる興味を抱き、それを政権内に取り込むことを行ないましたが、このことは大きなメリットになる一方で、デメリットにもなり得ます。実際にキリスト教流入による混乱や、海外出兵による政権崩壊が起きました。
江戸幕府創始者の徳川家康を、私は極めて優秀な凡人であると認識しているのですが、その創始者の認識は、良くも悪くも幕府終末期までの政権の基本構造として受け継がれたのではないか。そういった点から、自分たちに海を御する力はないと判断し、代わりに強力な「内弁慶」の政権を指向したのではないかと思っています。
山に追い払われた「海の男」来島氏は、仕方なく庭園を造ったり、山の中の城を幕府に内緒で改造したりして、時間をつぶしていたようですが、これは全部領民から巻き上げた年貢やら財産やらでやっていますので、下々の民からすればたまったもんじゃない。だからあまり慕われていなかったのか、今残る遺跡も、ちょっと取り扱いが雑な感じがします。
時間は一気に進みます。
歴史は宇宙世紀の段階に入り、玖珠町にまた一つ名所ができました。