拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

京都ちょっとだけぶらぶら PartⅡ(3日目)

あっという間に3日目になりまして、もう午後には帰らなくてはなりません。

京都駅から比較的近場で、大徳寺近辺に向かいます。

 

大徳寺から少し足を伸ばした所にある建勲神社

 

建勲(たけいさお)神社は、織田信長を祀る神社です。出来たのはそれほど古くはなく、明治を迎えてからとのこと。

なんですかね。歴史はまさに勝者が作るんだなあということが、信長と徳川家康の現世における祀られ方に現れているんじゃないですかね。信長が生きている時代には、一応同盟者とはいえ腰巾着のように必死に引っ付いているだけだった家康が、最終的には天下を治め、結果的には日光とかにとんでもなく立派に祀られている。

もし信長の魂がまだ残っているとするならば、「なんでアイツがアレで、オレはこの程度なのか」と、不機嫌極まりないでしょうね。いや建勲神社も十分立派ですけれども。

 

拝殿には家臣達の額が飾ってあります。松永くんはあったかな?

 

今のアメリカと日本の同盟関係って、信長と家康が結んだ清洲同盟に状況が似ている気がします。対等な形式を取ってはいても、軍事力、経済力には両者に雲泥の差があって、実質的には上下がある。ただ上下はあっても、ソ連(今はロシア)という強敵が共に近くにいて、もしソ連によって日本が潰されたらアメリカも非常にやばいことになるので、日本を必死で守ってはくれる。

 

ソ連武田信玄とするなら、今のプーチン・ロシアは勝頼ですか。「信玄死んで安心だわ~」と思っていたら、勝頼も中々にやばいことが分かってきた。上杉(中国)の存在も不気味ですし、真田家(北朝鮮)はやたらと弓矢(ミサイル)を放って挑発してきますしねえ。徳川(日本)とすれば色々と織田家アメリカ)に不満はあるし、沖縄も実質占拠されたままだけど、今は言うことを聞くしかないと。三河武士の団結力で乗り切っていくしかないと。

いつかアメリカで本能寺の変が起きて、ドサクサを神君伊賀越え並みにうまく切り抜けることができたなら、日本が世界の天下を取る日がくるのかもしれません。取らない方が良いですが。

それにしても、アメリカで起きる本能寺の変って、どんななんですかね?

 

今日はもう、ひたすら戦乱の中を行きます。いよいよ大徳寺境内です。

大徳寺といえばこの門の利休のアレですね。秀吉スイッチ入っちゃった。

 

まずは総見院に入りました。

羽柴秀吉が信長の菩提を弔うために建立した寺院です。通常は非公開なので、今日はチャンス。

 

 

秀吉という人も、知れば知るほど桁外れの人物だと感じます。

謀反人の明智光秀を山崎で倒したまでは普通ですが(「中国大返し」は全然普通ではありませんが、まあ秀吉なら普通ということで)、その後に大徳寺で行なった信長の大葬礼が、やり方が凄い。エグい。

当時織田家の一家臣の分際で、葬儀を挙行。喪主を自身の養子秀勝にさせているのですが、この人は信長の四男坊(実子)であるので、誰にも文句がつけられない。つけられないけど、「羽柴家」が喪主をしたことも事実として残る巧妙さ。姑息さ。

まるでこのときを予想して、信長から秀勝を養子にもらったんじゃないかと思われるほどの鮮やかさですが、多分そうではありません。秀吉の凄いところは徹底的な現実主義者であるところであって、その瞬間の手元にあるカードがいかに貧弱であろうとも、それを嘆かず縦横に駆使し、相手の心理などを読み尽くして、自身が有利になるようジワジワと相手を追いつめていくところにあるように感じます。

たぶん柴田勝家あたりは、この葬儀の際、前歯も奥歯も噛み砕かんばかりの形相でいたのではないかと思われますが、ここらが天下人になった人となれなかった人との違いということだったのでしょうか。

ただそんな秀吉も、世の中のすべてのカードを手にした途端、現実から乖離し、相手の心理など考えることもなく結局は大陸で身を滅ぼした歴史の事実をみると、人の器というのは、どれほど大きくても所詮限界があるのだと思わざるを得ません。秀吉よりも小さく感じる家康が、個別の人の器量にあまり左右されない制度作りに没頭し、その後の260年間の天下を徳川家が治めたことが、何ごとかを示唆しているようにも感じます。

 

総見院には、信長の木造が置いてあります。よく本やテレビでも出てくる有名なもので、一周忌に間に合わせて作られたものですから、生きていた頃の信長の雰囲気をリアルに伝えていると言われています。

私は実物を初めて見たのですが、何というのですかね、凄みというか、もうちょっと何か失敗するとすぐに切腹させられそうな厳しい雰囲気というのか、こういう人が上司だったらたまりませんねえ。木造とはいえ、自分の仕事の会議より緊張しました。

私自身の仕事でも、目標未達のときは幹部会議用にアレコレと言い訳こさえたり、次の手をもっともらしく説明したり、それなりにやばい状況になるのですが、もし信長の幹部会議に私が出席だと、すぐに切腹とか、よくて即時追放とか信長に命じられそうで、どちらにせよに気が気でなりませんな。会議出席のたびに「これが最後かもしれん…」と覚悟して臨む。もう農民に戻るわ。

ただこういう厳しい上司の側にいて、その中で必死に頑張って生き残ってきたからこそ、秀吉や家康という人材は磨きに磨かれていったのかもしれません。

 

正室と側室は亡くなってからも格差あります

 

総見院は、今も普通に現役の(と言っては変かもしれませんが)お墓なのですね。信長と同じ敷地内に、一般の方のお墓がたくさんありました。信長と同じ敷地内のお墓に入ったら、あの世の天下取りに加勢させられるのでしょうか。今からだと超新入りになってしまうので、草履取りからはじめるか。

 

帰りの列車の時刻が迫ってきました。残りは駆け足で。

瑞峯院。大友宗麟創建なので、(にせ)大分県民としては行っておく必要がある。

「宗麟」の名は法名ですが、キリスト教徒としての彼の名はドン・フランシスコ。後半生のキリスト教への傾倒ぶりからいえば、本人的には「大友・D・フランシスコ」と表記してもらいたいんじゃないですかね。どうでもいいですが(宗麟には冷たく)。

 

興臨院。信長の部下だった前田利家が再興しています。利家も信長に鍛えられたからこその100万石大名ではなかったでしょうか。

この中にいたときに、何か利家の生きているときの心安まらぬ必死さと、死んでからの安堵を感じたような気がしました。いつ死ぬか分からない戦乱の時代を切り抜け、何とか次代に家を残す。利家自身は、よく知られている豊臣家と徳川家の確執の間に立たされて、死ぬ瞬間まで生きている間は安堵はなかったかもしれません。死してようやく安らいだのかもなあ。大変だったろうなあ。

 

最後は黄梅院。これは信長がお父さんの信秀のために作ったらしいです。

小説やドラマで有名な、若き信長が父の葬式で、焼香の際に抹香を投げつけたというエピソード。ここに来れば、実はちゃんと立派に菩提を弔っていることが分かります。でも「じいや」の平手政秀あたりが必死に駆けずり回って、「信長様が作りました!」ってな仕様にしていたりして…。苦労の絶えない「じいや」です。

 

お祭りやっていたので、ちょこっとだけ今宮神社へも。

ホークスの今宮が今年まぐれでもよいので「3割」いきますように。

4月に大分の一心寺でも彼のためにお祈りしたので、今年は調子良いですね。今のところ。いや全ては彼本人の努力の賜物ですが。

 

さて、急いで京都駅に向かうぞ。

帰って、明日からまた仕事だ。。。(このシリーズ終わり)