淀川のクジラの淀ちゃん、死んじゃって30トンもの重りをつけられて、海に沈められたそうですね。残念です。
淀ちゃん死す…のニュースを聞いて、久しぶりに淀川長治さんの「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」の締めのフレーズを思い出しました。人間のヨドチョーさんが亡くなられてからも、随分と時が流れました。(「平成」世代の方は、もう知らんだろうな。)
たまたま最近読んだ本で、クジラの本当の死にざまを知りました。
大海原をゆったりと巨体を泳がせていくクジラを想像すると、どことなく優雅でロマンチックな感じがしますが、そんなクジラもいつか死を迎えます。
ニュースでも言われていましたが、クジラは死ぬと体内にガスがたまり、海面に1度浮かび上がってくるそうですが、やがて深くて暗い海の底へ静かに沈んでいきます。
海の底では、多くの生き物たちが、クジラが沈んで来るのを心待ちにしています。
最初は、サメたちのご馳走。(最高級の鯨肉ですな。)
次に、サメたちが食い散らかして小さな断片になった肉を食べに、小魚たちがやってきます。
肉がなくなると、今度は貝の仲間などが群がってきて、クジラの硬い骨をエサとして分解していく。
静かな暗い深海に、死んたクジラが少しずつ解体されて沈んでいく。
その様は殺伐としながらも、どこかメルヘンチックで、何だか太宰治の退廃と宮沢賢治の詩情が合体したような、そんな雰囲気を感じてしまいます。
クジラにとっても死は悲しいものに相違ないでしょうが、その死がほかの多くの生物を育んでいく。クジラにとっての死の意味は、そういうところにあるのでしょう。
それならば、人にとっての死の意味は、どこにあるのだろう。
昔みたいに土葬とかだったら、まあ土中の生物にとって少しは嬉しいものになったかもしれませんが、今は火葬だし、意味ないんじゃないかなあ…。
ただ、思うことがあります。
人と他の動物の生涯で、決定的に違うことがあるとすれば、人は(そりゃ生まれや時代や、そのほか諸々で大きな縛りや不自由・不公平さがあるとはいえ、)自分なりに、自分の生涯のシナリオを書いて実践できるという能力を与えられているということであり、たとえ当人が意図しなくとも、その生涯自体が「作品」として後世に残っていく可能性があるということであります。
「棺を蓋(おお)いて事定まる」と言いますが、人は死ぬことによって自らの「作品」を完成させ、後世の人々は、その残された「作品」を楽しんだり戒めにしたりして、また次の世を、自分自身の「作品」を作っていく生き物なのかもしれません。
人に死の意味があるとすれば、きっとそういうところにあるのでしょう。
クジラの淀ちゃんは、強制的に海に沈められましたが、これから海の中で多くの生物を育んでいくことでしょう。
人間のヨドチョーさんは、亡くなられて時が経ちましたが、まだ私の脳裏に焼き付いている。
私は、「作品」を作れているのだろうか。
まあ、いっか。
※今回のは、下記の図書を参考にさせていただきました。とても面白かったですよ。
『生き物の死にざま はかない命の物語』稲垣栄洋著 草思社