新しい年が明けました。
とはいえ、何かが変わったのかといえば、何も変わってはいません。
相変わらず寒いままだし、物価は高いままだし、嬉しいことがあるわけでもない。(これは個人的なことでしょうが。)
まあ当たり前の話で、年越しなんて要は人類が勝手に暦を作って、勝手に1年を区切って騒ぎ、それを近所の猫が冷ややかに見ている一連の流れにすぎないわけであります。
それでも年の区切りを迎えると、やはり何かを思わずにはいられないのが、人類の不思議さというものでしょうか。
昨年亡くなられた谷川俊太郎さんの詩「今年」を、あらためて読み返してみました。部分を抜粋します。
「涙があるだろう/今年も」
「あくびをするだろう/今年も」
「決心はにぶるだろう今年も」
「しかし去年とちがうだろうほんの少し/今年は」
去年までと少しだけちがうことが、「今年は」きっとある。それが良いことであると信じて、新しい年を生きていく。
たとえ去年が酷い年であったとしても、紙切れにすぎない暦を新しくすることで、前に向かってまた進んでいく。人類の偉大さというものでしょう。
一方で、その偉大さを自ら踏みにじる行為が、有史以来、世界中あちこちで起きている。
「今年も」ではなく、「今年は」にするためには、どうすればよいのだろう。そんなことを思わずにはいられない年明けです。