拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

平和主義者のはずですが・・・

荒くれのヤンキーが、雨に濡れてビショビショになった捨て犬をひろう。その姿を偶然見かけた少女が、恋に落ちる…。

わたくしが勝手に規定している、昭和少女漫画のド定番(?)シーンですな。

 

人間には誰しも二面性があります。

至って平和主義者であるわたくしではありますが、荒くれヤンキーとは逆に、歴史探訪の際には血が飛び散った痕跡のようなものを感じられる場所に好んで行きます。その姿を偶然みかけた少女も、恋には落ちません。

 

 

 

近所が維新回転の舞台であるというのは、いいですなあ。

吉田東洋が暗殺された地に立つ図書館で「竜馬がゆく」を借りてきて、武市半平太が腹を切った場所にあるいつものスーパーで土佐の酒を買う。

 

夜になったら、飲みながら読むんです。

すると、冴えわたる司馬遼太郎のペンの力もあって、いまそこで事件が起きているかのような感覚が生じる。

 

夜の暗闇には、時間の流れをも闇に沈めるようなところがあります。

静かになった街のすき間から、東洋の最期のうめき声や半平太の激烈な無念を、かすかに感じ取れるような瞬間があって、これは事実があったその場所でしか味わえない。

 

わたくしにとっての血塗られた場所への巡礼とは、平和主義とかそういったこととは関係なく、己の信念を貫き、死んでいった者への供養の気持ちが込められているのだと思います。

だって、こんな生き方自分には無理だもん。

 

室戸岬

室戸岬というと、行ったことがなくても知っている。台風がくるたびに、耳にしますからね。

 

高知県の気象予報は、「高知市」「足摺岬」「室戸岬」の3つがテレビで出ることが多いのですが、高知市はともかく、東西はそこまで端っこの地区にしなくても…とは思います。

やっぱり台風のせい?

 

 

四国はお遍路が盛んな地域ですが、高知県内にも多くのお寺があります。

歩道なしの普通の国道をお遍路さんが歩いているので、車で動くときは注意が必要です。

 

室戸岬の近くにも、最御崎寺(ほつみさきじ)という所があって、空海がこの地で修行していたら明星(金星)が飛び込んできたとかいう伝説があるらしく、そのためかお寺の山号は「室戸山 明星院」となっています。

 

わたくしの家のベランダには、カメムシがどんどん飛び込んできますので、将来悟りを開いたなら、「亀虫院」の山号を掲げてもらえることでしょう。

誰もお参りに来ないだろうな…。

 

 

ここのお寺は、まあやっぱりある意味「場所が良い」ので、大みそかの「ゆく年くる年」の格好の中継場所になるようです。除夜の鐘の放送があるたびに、記念の石碑を作りかえているのでしょうか。

これによれば最後が「平成13年」ですので、そろそろ次あたり期待できそうです。

 

高知の銅像好きは、室戸岬にも。中岡慎太郎像があります。(出身地からはだいぶ離れていますが…。)

ちなみに反対側西方の足摺岬には、ジョン万次郎の銅像が頑張っていて、東西両岬で張り合っています。(万次郎 対 慎太郎)

 

 

 

土佐湾をぼんやり眺めていると、海というのは存外、人の心に大きな影響を及ぼしているのではないのかなあと思うことがあります。

たとえば瀬戸内の島々が集う海を始終眺めている人たちは、何となく思うのですが、島々や対岸に住む人々の暮らしに愛おしさを感じながら、人に対する優しさを育むのではないか。

 

高知の海には何の島影も見えず、ただひたすらに荒い波が打ち寄せる。

この海はこの地に住む人々に、野生的な何かを育ませるのではないか。何も見えないはるか水平線の向こう側を、何とかして見てみたいという湧き上がるような熱情が、歴史上の土佐人を作りあげてきたのではないのか。

 

今は情報が発達して、この海の向こうがどのようになっているのか、行かなくても分かってしまっています。現代の土佐人の哀しさは、そこにあるような気がします。

 

人気いまいち山内さん

今も衰える気配がない龍馬人気に対して、かつてのお殿様である山内家の人気はパッとしませんなあ。

 

幕末に活躍した山内容堂公が住んでいた跡地一帯が山内神社になっていて、そこに容堂の像はあります。

でも駅前にも、人気観光地にも「山内」の気配はない。

(さすがに「高知城」には、山内一豊夫婦の像が(なぜか別々の離れた場所に)ありますが…。)

土佐人は今でも、「俺らは長宗我部侍やき、山内のことばあ、よう知らんがです!」みたいな感じなのでしょうか。

 

容堂公は、銅像になっても酒を飲んだくれていました。

でも、この人ほど酒を飲む姿がサマになる人もいないですね。

 

神社の門には、山内家の家紋が飾られています。

よく知られた話ですが、かつて山内家に仕えた岩崎弥太郎が創業した三菱のマークは、このデザインが元になっているようですね。

 

 

神社近くの容堂公住まいの跡。

はるばる薩摩から西郷隆盛がこの地にやって来て、雄藩連合による幕府運営を容堂にそそのかします。

容堂も何だか軸が定まっていない人なので、外様でありながら土佐24万石を徳川家から拝領した大恩と、幕末流行の勤皇とを行ったり来たりして、挙句「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」なんて陰口をたたかれるようになります。

 

まあ、でもね。容堂さんはやっぱり酒!酒を飲んでりゃ、なんとかなる!

土佐人は何だかんだ言っても、容堂のある部分の気質を受け継いでいるじゃないか。

 

山内神社に奉納される土佐の酒を、容堂公は今日もせっせと飲んでいます。

酔って候!

 

龍馬 龍馬 龍馬!

高知に住んで、はや半年になりますが、あらためて高知における龍馬人気というのは凄いものがあります。

龍馬だらけ!

 

有名な桂浜の龍馬。

 

高知駅前の龍馬。(ほか武市半平太中岡慎太郎

駅前の龍馬像は、発砲スチロール(?)らしく、台風のときは撤去されるそうです。

 

パスポートも龍馬。

このまえ抽選に当たって、県内ホテルの宿泊券をいただきました。

 

 

郵便局も龍馬。

生まれた地の近くにあります。

 

龍馬の生誕地。

この隣にある病院の先生の所に仕事でお邪魔したのですが、もうめちゃくちゃ詳しい!

仕事の話はそこそこに、龍馬談義が楽しめました。

 

命を懸けた国事に追われ、わずか33歳で散った龍馬の人生を思うと、なんだか少しやり切れない思いもします。

でも、だからこそ、龍馬は後世の人々に永遠に語りかけることができる。龍馬が生きてきた時間は、これから生まれてくる人たちの心のなかにも、きっと刻まれていく。

 

高知の、いや日本人の心をシュッとさせるアニキ分として、龍馬にはこれからも生き続けていってほしいなと思います。

 

新大関 こんどこそ

琴ノ若関、大関昇進おめでとうございます。

翌々場所からは、横綱だったおじいさんから譲り受ける琴櫻を襲名するとのことで、まさに横綱を目指す強い大関になっていただきたいと思います。

 

なんだか最近、「元」大関の現役力士が多すぎる気がします。

大関昇進時は勢いがあって楽しみにしていたのに、大関になった途端、勝ち越しがやっとだったり、あっさり陥落したりしている。

ケガであったり、それぞれ事情はあるとは思いますが、昇進時に述べた晴れやかな口上は一体なんだったのだろう?と感じてしまう。

 

大関とは、特別なポジションだと思います。

圧倒的な強さを維持し、最後の頂きである横綱をひたすらに目指す。

やむを得ない事情がない限りは、陥落が許されない地位であり、ゆえに大関という呼称には特別な響きがあると思うのです。

 

「元」大関が幕内で負けたり、勝ったり、そのほかの力士と同じような感じで取り組みを続けているのは、見ていて情けなく、みすぼらしく感じます。

大関に昇進した時点で、覚悟を持ってほしい。横綱を目指す力量なり、気持ちなりを失ってしまったという自覚を持った時点で、即引退するくらいの覚悟を持ってもらいたいのです。それくらいの特別なものだと、少なくとも観戦する一ファンとしては思います。

 

今回昇進した琴ノ若関は、その辺大丈夫かもなという期待があります。

父の果たせなかった大関を得て、祖父の果たした横綱を目指す。

今の一人横綱が、体がガタガタになりながらも奮戦して地位を保っている。

彼が現役のうちに横綱に駆け上がり、単に強いというだけではない、横綱として背負うべき何ごとかの「引継ぎ」を果たしてほしいなと思います。

 

頑張れ、新大関

 

あのとき、ああしていればよかった・・・

今年も、はや1か月が過ぎようとしています。月日が経つのは、本当に早い。

年齢を重ねていくと、振りかえってみて「あのとき、ああしていればよかった・・・」といったことが増えていくように思われます。

 

ガンダムを初めてテレビで見たのは、小学生のときでした。

当時のわたくしからしたら、アムロフラウ・ボウも、お兄さん、お姉さんであり(むしろ、カツ、レツ、キッカの年齢に近かった)、その頃は何も思わなかったのですが、いま大人になって振りかえってみて、「あのときアムロは、ああしていればよかったのに・・・」と思うことがあります。

 

彼の人生を変えることができたチャンスは、あのとき・・・。

ガンダムに乗って、脱走したときがありましたね。

フラウ・ボウが連れ戻しに来て、ハモンさんやランバ・ラルと砂漠の酒場(?)に入って。

あのとき、ガンダムごとジオンに寝返ればよかったのに。

 

あの頃の戦況からいえば、ガンダム1機寝返れば、もうジオンの圧勝だったでしょう。

当然、ジオン十字勲章もので、戦後は裕福な暮らしを送ったことでしょう。

大好きなララァを自分の手で殺してしまうという、死ぬまでぬぐい切れない後悔を背負うこともなく、もしかしたら彼女と一緒に幸せに暮らすこともできたかもしれない。

 

何よりも上司が、いつもイライラしている器の小さなブライト艦長と、部下からも慕われ、要所要所で名言を乱発するランバ・ラル大尉とでは、職場における仕事の満足度がまるで違う。

大人になって振りかえると、アムロはしくじったな、と思います。

 

そんなわけで、今年もはや1か月が終わります。

年明け早々、暗い話題だらけのニッポン。せめて楽しい妄想に努めたいものです。

 

三社(?)詣で

遅まきながら、高知版三社詣で(勝手版)で年明けのお祈りをしました。

 

まずはご近所の潮江天満宮へ。

もう1月も13日に入っていましたが、まだ多少はお参りの方も多く、お正月の華やぎが少しは残っている感じでした。

 

全国に天満宮は数多くあれど、この宮は菅原道真ではなくて、息子の高視(たかみ)さんをメインにしているという点がちょっと他にないのではないでしょうか?(高視さんがこの近くに流されて住んでいたようです。)

 

そして、ひねくれ者のわたくしが愛するのは、本社ではなく、この天満宮の隅っこにある末社の白太夫社です。

 

 

太夫、渡会晴彦(わたらいの はるひこ)を祀る神社。

 

この方、道真が亡くなったとき、わざわざ息子に遺品を届けに土佐までやってきて、伝承ではあと一歩というところ、この近くまで来たのに、そこで息絶えてしまったらしいのです。

 

まあそれが本当なのかどうかは分かりませんが、道真という人は左遷先に梅が飛んで行ったり、死んだ後も人が飛んで行ったり、とてつもなく人望(梅からも?)があった方なのですね。

末社とはいえ、この晴彦さんが社として祀られていることを、何だか嬉しく思うのです。

 

 

次は土佐神社だ。

 

 

本殿を長宗我部元親公が再建した、土佐一ノ宮。その名に恥じぬ威容です。

この辺りは地名も一宮といい、いっくと読みます。かなり古い由緒があるらしい。(というか、古すぎてよく分からない感じみたいです。)

 

 

 

高知に引っ越して5か月目の初のお参りですから、「遅い」と怒られそうですが、まあ結構外れにあるのだから許してください。

高知の平野の端っこ。目の前に山が迫り、ここから向こうは四国脊梁(せきりょう)山脈が延々と瀬戸内海まで続いていきます。社の起こりは、どうもこの辺りの地形に由縁がありそうな気がします。

 

 

最後は、土佐神社の隣にあった善楽寺

 

 

お遍路寺の1つで、弘法大師ゆかりの何たららしいですが、四国は大師様ゆかりが多く、もうそれくらいでは驚かなくなりました。

お寺を入れて「三社」になるのかは分かりませんが、まあ神仏習合のときは一緒のようなものでしょうから、力づくで三社ということで…。

 

いずれにせよ、神様、仏様。

どうぞ世界が、安らかになりますように。

遠い地の悲しい叫びが、これ以上は大きくなりませんように。

災害に覆われた人々の辛い思いが、少しでも軽いものになりますように。