拙なる日々

日日是拙日

八八八

今日は令和8年8月8日。末広がりで縁起がいいね。

 

もうだいぶ昔の話になりますが、前の元号のとき、すなわち平成8年8月8日のたわいもない日常のことをいまだに覚えています。

職場で、その日の受付印「8.8.8」が押された書類が処理を担当する私のところに回ってきたのですが、日付の下に「末広がりで縁起がいいね」と落書きされていました。受付印を押した担当者が書いたものでしたが、最初何のことか分からず、あとから「8」は字体の形状(八)から末広がりをあらわす縁起の良い数字であり、それが並んだ日であることから、そのようなことを書いたのだということを知りました。

 

元号が変わり、今回の「8.8.8」は休日で、受付印を押されることはありませんでした。次の元号の「8.8.8」の頃は、もう電子申請だけになってしまって、紙に受付印を押すようなこともなくなっているのかもしれませんね。(もう生きていないか!)

 

縁起がいいどころか、昨今は嫌なことばかりが起きます。熊本の地震は、もう何と声をかけてよいのか分からない。

たまたま発生3時間前の震源地を新幹線で通りました。車窓にはありふれた真夏の風景が並んでいました。そのわずかな後にあんなことになって。多くの方が亡くなって、ケガをして。特に自分よりウンと若い方が亡くなられていることに、言いようのないものを感じました。神様って、本当にいるのでしょうか?

 

こんな理不尽な世界に、それでも望みをつないで、今日の日付を並べます。

八八八。末広がりで縁起がいいね。

どうか、世界中に良いことが起きますように。

 

山崎の戦い

大河ドラマで、いよいよ山崎の戦いが始まりますね。

 

山崎の戦いは高速道路の高架下で行なわれた?

 

4月に新聞記事を読んで驚いたのですが、山崎の戦いに羽柴秀吉が間に合っていなかったかもしれない、という説が最近出てきているそうです。

戦い当日に秀吉が書いたと思われる書状が見つかって、それが山崎とは結構離れた場所で書かれていることから、少なくとも秀吉が明智光秀を直接敗走させたわけではなさそうだと。その役割は、光秀が拠点とした勝龍寺城の近くにいた池田恒興だったのではないかと。

 

個人的には、モヤモヤがすっきりした感じがします。

織田信長が死んだ後に開かれた有名な清須会議。メンバーは柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興。つねおき~?

 

以前から、どうも恒興が加わっていることに違和感がありました。

勝家、秀吉、長秀は、今の大企業でいうと役員クラス。恒興は経営には参画していない課長か部長程度。通説では、役員のもう一人、滝川一益が間に合わなかったので代役で、ということになっていますが、いくら恒興が社長(信長)の幼なじみ(乳兄弟)だからといって、こんな大事な会議に、代理で急に呼ばれるようなポジションの人ではない。

でも恒興が憎き光秀を倒してくれたとなると、話は全然違ってきます。役員間で一気に池田株急騰。そりゃ、役員会(清須会議)にも出席できるでしょう。

 

でも、秀吉にとっては、事実ありのままの状態で恒興に参加されると、不都合だったのではないでしょうか。

織田家の後継者的立場をリードするためには、特に古参の柴田勝家・丹羽長秀の上に立つためには、光秀を倒したという「実績」が何より重要です。それがなければ、清須会議で秀吉が何言ったところで、勝家に「お前なんぞがしゃしゃり出てくるなー!」と一喝されて終了です。

 

秀吉は言ったんじゃないですかね。

「恒興殿、ようやった!しかし、このお手柄を柴田様に伝えたところで、乳兄弟たるものそれくらいは当然といった感じで、せいぜい次のボーナスが増えるくらいであろう。どうじゃ、ワシと組まんか?ワシなら、そなたを役員に引き上げてやる。共に池田の名を世に轟かせようぞ!」

 

人の好い恒興は秀吉の言いなりになり、あくまでも秀吉が指示した作戦の結果であって、直接的には恒興が光秀を討ったが、事実上の手柄は秀吉であることにした。恒興は手柄を秀吉に渡す代わりに、役員に引き上げてもらった。その後、信長の会社は秀吉に乗っ取られ、恒興の地位はますます盤石のものとなった。

 

ただ、天下統一が近づいてくると、真実を知る恒興が邪魔になってくる。そこで秀吉は、徳川家康との決戦となった小牧・長久手の戦いにおいて、無謀な別動隊の大将に恒興を仕立て上げ、予定通り討ち死にさせた。恒興が死んだあと、秀吉は自身が光秀を直接討ったと書き換えた…。

 

歴史は勝者によって作られる。このあたりが本当のところなのかもしれません。

幸い池田家はその後も大切にされ、徳川幕府になってからは一族で100万石近くを領する大大名となって明治まで存続しました。

泉下の秀吉は、「400年以上経って、ようやくバレおったか」とニヤついているのかもしれませんね。

 

山崎の戦いにおける明智光秀の拠点となった勝龍寺城

城の近くの光秀本陣跡。諸説あるようですが…

阪急大山崎駅近くにある関大明神社(京都(山城国)と大阪(摂津国)の境に建つ)

石敢當(せっかんとう)。なぜ山崎にあるのかが不明です。(普通は鹿児島とか沖縄にある)

 

滋賀の旅 ~おわり

滋賀県屈指の古刹である三井寺には、帰る当日にバタバタとお参りをしました。

 

 

この超有名寺について、わたしなんぞが何かを書く必要などありませんが、豊臣秀吉に一度つぶされたことがあったことは知りませんでした。

寺は(当然でしょうが)いまだ多少恨みめいたものを持っているのか、お堂の中にそのことについて書かれた展示がありました。ほとんどの建物が破却されたり、他へ移転させられたりしているようなので、秀吉が当時の三井寺の何かに激怒して、短期間での徹底的な取りつぶしを行なったのだと思われます。(その明確な理由はよく分かっていないようで、破却からわずか3年くらい後、秀吉が死ぬ直前になって再興を許されています。)

 

秀吉は、一般的には織田信長が燃やした比叡山の復興に尽力するなど、融和的・親和的なイメージがありますが、やはり冷酷な権力者の面もあります。三井寺の取りつぶしは、人たらしで明るいイメージのある秀吉本人の本来の気質によるものなのか、それとも権力という魔物に人格が侵されてのことなのか、または年を取って認知機能の病気にかかってしまっていたのか。そのあたりのことはよく分かりません。

秀吉の晩年は、前半生と対比してどこか暗いものがつきまとっていますが、ドラマなどでもあえてスポットを当てないようにしている感があります。彼の晩年の真実が明らかになってくれば、三井寺つぶしと時期が重なる朝鮮出兵の意味づけなども、もう少し見えてくる部分があるような気がします。

 

 



というわけで、今回久しぶりに琵琶湖周辺をウロウロとしてきました。

ところで滋賀県って、近畿の「じゃない方」の県なんですね。(地元の関西ローカルの番組で、そういうタイトルで奈良、和歌山と一緒にお店の紹介などをしていました。)東京からみた北関東(栃木県、群馬県、茨城県)のような位置づけなのでしょうか。

 

まあ、西日本の絶対的中心都市である大阪や、今や世界中に名が轟いている京都と比べたとき、滋賀がそのような色分けになることは分かるような気もします。ただ、関東と異なるのは、「じゃない方」の滋賀県1人あたりの県民所得は、たしか大阪などよりも高く、さらには、いざとなったら琵琶湖の水をとめることができる(?)有利性のため、大阪、京都といえども、そう簡単にはマウントを取れないといったところにありそうです。(今のアメリカとイランみたいだ。)

 

戦国時代、織田信長は琵琶湖を抑えることに執念を燃やしました。

東の長浜に秀吉を、西の坂本には明智光秀を、自身はその中間に安土城をどっしりと構え、万全を期しました。まさに「琵琶湖の水を止める」。そのことが、京都やそれ以西の大名勢力などに、心理的な面を含めてどれほどの大きな影響を及ぼしただろうか。

今でも滋賀は、日本の東西を結ぶ交通の要衝地です。冬になると、よく米原付近の風雪で新幹線に遅れが出てしまい、はるか東京や博多にまで甚大な影響を及ぼします。滋賀に何ごとかが生じれば、日本中が混乱に陥る。滋賀県民が「じゃない方」とかいじられても、全然余裕ぶっかましている印象があるのですが、それはこういった「自信」があるからなのでしょうか。(イランみたいだ。「ホルムズ海峡封鎖したろか」。)

 

余談ですが、琵琶湖ははるかな未来には日本海とつながってしまい、湖でなくなるらしいですね。そのころまで人類が存続しているかは怪しいですが、琵琶湖が海になってしまったら、関西は、そして日本はどうなってしまうのだろうと不安に思います。

まあ、そんな遠い将来のことを考えても仕方ありませんね。今宵は琵琶湖の珍味を肴に、のんびりと酒を飲むことにしましょう。(おわり)

 

滋賀県随一のスポット(と勝手に思っている)。4両電車が道路を走る姿は壮観です。

 

滋賀の旅 ~近江八幡

近江八幡は、豊臣家第2代関白の秀次が開いた町です。町の中心には、麓からロープウェイで上がれる八幡山城がそびえ、そこからの琵琶湖の眺めは格別のものがあります。

 

 

将来を約束された若き秀次の輝かしい時間は、叔父の秀吉に子どもが生まれたことによって暗転します。秀次一族は、その後秀吉に難癖(としか思えない)をつけられて皆殺しになりましたが、この凄惨な事件は、秀次のお膝元であった近江八幡の町にも暗い影を落としたのではないかと思われます。

 

自分が秀次であったならば、秀頼が生まれた後にどのように行動するだろうか?

得意の歴史妄想をしてみました。わたしが、もし当時の秀次であったならば、希望としてはこんな流れにもっていきたい。

 

「太閤殿下、年末あたりで秀頼様に関白職をお譲り致しとうございます。その後は大和あたりを一国いただけませぬか?ブラブラと寺めぐりでもしようかと思います」

「そうか、そうしてくれるか。しかし秀頼はまだ幼い。その方が頼りじゃ。くれぐれも秀頼のことをよろしく頼む」

 

そんな会話をして、まもなく滞りなく禅譲。秀吉と仲違いすることもなく、その後も平和に過ごす。しばらくそんな日々が続き、とある日突然、秀吉にあらぬ謀反の疑いをかけられて、一族誅殺!

やはり、どっちにしても殺される!秀吉が生きている限り、秀次はやっぱりいつか殺される!無事に暮らすは夢のまた夢…。

 

 

八幡山城に、秀吉・秀長兄弟のお姉さんである日秀尼が開いたお寺がありました。

 

 

 

NHKの大河ドラマを見ている方なら、「宮澤エマさん」と言ったほうが分かりやすいですね。エマさん、いや日秀尼はとても長生きした人でした。彼女の人生の出来事を彼女目線で大雑把に書き出すと、次のような感じになります。

 

①貧乏庶民として生まれ、食うや食わずやの子ども時代を過ごす。

②実弟が大出世し、一家でおいしいご飯が食べられるようになる。

③実弟が関白になる。その代償として、実妹が実弟によって強制離婚させられ、無理やりライバルのもとに嫁がされる。義弟(実妹夫)は、その後抗議の自殺をしたとも伝わり、実妹も数年後に病死する。

④実弟に子ども(甥)が生まれたことにより、養子に出した長男が実弟によって殺され、夫も流罪となる。

⑤実弟が死に、関ヶ原の戦いが起きる。

⑥大坂の陣で甥と義妹が死に、実家が滅亡する。

⑦その10年くらい後に死去。

 

この家、もうドロドロ!彼女の目線で見ていくと、豊臣家の滅亡は必定であったように思われます。

上記②くらいで止まっておけばよかったのに。後世に大河ドラマ等で注目されることはなかった代わりに、みんなでそこそこ幸せな人生を全うしていたかもしれないのに。

 

日秀尼がいくら長生きをしたとはいえ、自分たちの一家が貧乏庶民から天下人まで昇りつめ、やがては滅亡していく様を、自身の目一代ですべて見尽くすことは尋常なことではありません。日秀尼は、どのような心境で③以降の期間を過ごしていたのでしょうか。

 

教訓めいたことを書くならば、人生で目指すべきは、おいしいご飯が食べられる②くらいまでにしておくべきであり、それ以上の欲をかくとロクなことにならないといったところでしょうかね。まさに「まんが日本昔ばなし」のオチだなあ。でも、天下がチラつけば、そりゃ狙いにいっちゃうよなあ。

人生とは、難しいものであります。(つづく)

 

近江八幡市の名前の由来となった日牟禮八幡宮

 

八幡山城(山上)と泥水…ちがった八幡堀(前日の雨のせいです)

 

滋賀の旅 ~安土城

滋賀の旅2日目は、安土城へ。

 

安土駅前に建つシブい信長像。個人的には岐阜駅前の金ピカ信長が好きですが。

 

安土城は壮大ですね。今残っているのは石垣だけではありますが、これぞ「天下の城」という、他の城にはない圧倒的な風格があります。よくドラマとかで見る赤い華やかな「天主」の詳細は不明ながらも、当時の宣教師の記録などから、ケタ違いの建築物がそこに存在したであろうことは容易に想像がつきます。

 

 

 

近年の研究では、「信長の目指した”天下”とは畿内のことであって、全国統一は目指していなかった」という説が有力になっているそうですが、果たして本当にそうなのでしょうか?築城時点で、そこまで大した勢力は残っていなかったように思われる畿内を制圧するためだけに、ここまで巨大な城を作る必要があったのか。普通の感覚でいえば、やはり疑問を感じます。

安土城のこの常軌を逸した巨大さは、日本の辺境勢力に中央政権の威光を放つためであった。また、貿易の利益を得るために、遠くヨーロッパに向けて自らが日本の王であることを示すためのデモンストレーションであった。そのように考えた方が自然ではないのかと個人的には思います。

 

どうも最近の歴史学会の「新説」には、ご飯を食べるための売名のようなものが多い気がして、(表現は適切ではないかもしれませんが)人間が本来持っている動物的本質のようなものを踏まえていないものが多すぎる気がします。

狭い勉強部屋で、青白い顔で資料を読みふけっているばかりの研究者に、天下を目指すような野性味あふれる男の心境を理解できるとは思えないのですが。(最近の傾向にイライラしているので、表現が多少過激です。すみません。)

 

 

安土城の石垣の積み方を「野面積み(のづらづみ)」というそうです。ごつごつとした自然石を適当に組み合わせて積んでいるように見えますが、実は非常に緻密な計算によって出来あがっているようで、相当に頑丈で優れたものであるようです。

時代が進みますと、江戸城(現皇居)のようなツルっと加工されたファッショナブルな石垣も作られますが、野面積みの石垣は、いかにも戦国時代っぽい荒々しさ、戦国武者の筋骨のたくましさといった雰囲気が感じられて、個人的には大好きです。これこそが城の石垣というものだ。

 

  

 

 

城内のお寺にある不気味な信長像。光秀よりも秀吉を呪っていそう。

 

さて、安土城を堪能した後で、城から少し離れた所に「信長の館」なる施設があったので、こちらも覗いてみました。

 

 

安土城のレプリカが売りのようでしたが、個人的に最も興味を引いたのが、織田家子孫に伝えられたという信長の肖像画でした。ヨーロッパ人が描いたリアル信長。妹のお市も美人だっといいますし、このイケメンぶりには納得できるものがあります。

この顔で「(秀吉に)ハゲネズミ!」「(光秀に)キンカアタマ!」とか本当に言ってたんでしょうかねえ?

 

 

ここの売店で、「天下布武」の印鑑も購入しました。(こういうくだらないものには、よく金を使います。)

 

 

筆者にとっての「天下」は、せいぜい職場の自分の机の上程度を指すに過ぎず、ここで買った「天下布武」印の使い道も、職場の回覧のハンコ欄に冗談気配で押すくらいしかありませんが、先々西暦2400年ごろのバカ系歴史家には別の評価をされる可能性はあります。

「近代化が進んだと考えられる令和時代にも、武力で天下統一を狙った人物がいた!有力な証拠は、当時の職場の回覧板に押された、この「天下布武」の印である!」

 

バカバカしい与太話ですが、現代の「信長の目指した天下=畿内」説は、わたしにはこの程度の陳腐なものにみえてならないのです。(つづく)

 

写真に残しておきたい。ただそれだけの理由で食べました。無礼者!

 

どんな歌なのか?(唄は鳥羽一郎さんとなっているが…)

 

滋賀の旅 ~石山寺など

石山寺に行きました。名前のとおり、石の山が格好よかったです。

 

 

はるかな昔、締め切りに追われた紫式部が、この寺に「缶詰」になって源氏物語をキイキイ唸りながら書いたという伝承があるそうです(一部筆者が勝手に脚色)。そのことが本当なのかは分かりませんが、最近の京都とかのお寺にない良さがありました。

 

  


何が良いって、外国人がいないのが良い!京都からちょっと外れるだけで、こんなに落ち着くのか。

最近の一部風潮のように、外国人を排斥したいとか別にそんな感情は毛頭ありませんが、京都とかの有名観光地に行くと、正直やっぱり外国人が鬱陶しい。欧米人はやたらとデカくて鬱陶しいし、中国人はやたらと大声で鬱陶しい。

 

あまりにも勝手な言い分ではあるけれども、寺には文化系のヒョロッとしたおとなしめの人々が来るべきであり、少なくともわたしが参拝したときにそういう人しかいない気配であった石山寺は、なんだかとても落ち着いた雰囲気がありました。(書いていて思ったのですが、日本人にもデカくて大声な人はいるけれども、そんな体育会系の人は寺には興味がなくて来ない。外国人にも小柄で静かな人はいるけれども、そういう人は行動力が弱めで日本までは来ない。そういうことのような気がします。)

 

次に、近くの瀬田の唐橋に行きました。

今となっては、別にどこにでもありそうな瀬田の唐橋

「明日は瀬田に我が旗を立てよ」

わたし自身の瀬田のイメージといえば、武田信玄がいまわの際につぶやいたとされるこのセリフと、その後滅亡に向かっていった武田家の儚き運命とが、ない交ぜになった悲哀に満ちたものです。

いまの瀬田の水上には、信玄の無念ではなく、前回大会の無念をはらすべく、大学のボート部と思われる学生がせっせと練習を繰り返していました。

 

さらに足を延ばして、建部大社へ。

 

 

どうでもよいことですが、わたしの地元鹿児島にも建部神社という所があって、最近、下にトンネルを掘られてしまって、トンネルの上に乗っかる守り神みたいな立ち位置にさせられています。こんな適当なことやってバチが当たらないのかと冷や冷やしますが、ここのは日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る近江国の一之宮らしく、立派なものですねえ。

ただ、ヤマトタケルといえば、我ら鹿児島人にとっては、ご先祖クマソを倒した憎き敵ですな。鹿児島の建部神社もご祭神はヤマトタケルらしいのですが、神社下に平気でトンネルを掘るあたり、今でも鹿児島人はヤマトタケルをあまり敬ってはいないようです。

 

 


今の滋賀県が近江国だった頃、この辺りは日本の東西勢力の決戦場所であったようで、ここを保てた方が政権を握るといったところがあったようです。

この建部大社も、そんなことから何度も戦場になって燃えている。今も滋賀県民が大阪や京都の人とケンカになったとき、「琵琶湖の水止めたろか!」とタンカを切るそうですが(ホントかは知りませんが)、滋賀は昔からとても重要な地であったことは間違いないでしょう。

 

大津市のコンビニに売ってました

 

さて、本日の最後は、木曾義仲の眠る義仲寺(ぎちゅうじ)へ。

寺の名前からして、ここが義仲にいわれのある場所であることは予想がついていましたが、松尾芭蕉も、旅に病んで夢は枯野をかけ廻った後に、このお寺に収まったのですね。不勉強でした。

 

 

 

義仲が大好きだった本人の希望もあって、芭蕉はこの寺に葬られたそうで、今では狭い敷地で一緒に枯野をかけ廻っています。バリバリ武闘派の義仲を、文人派の芭蕉がそこまで推すイメージが今一つピンとこないのですが。

 

ただ、芭蕉の人物としてのイメージは、いかにも日本人好みの彼の句の印象も相まって、後世の人々が勝手に作りあげていったのかもしれず、ご本人は結構、武闘派・マッチョ系だったのかもしれません。実は忍者だったのではないか、なんて説もありますしね。

わたし自身も芭蕉に対しては、「旅に病んで…」の句のイメージが強すぎて、ガリガリの印象を持っているのですが、義仲というゴリゴリの武闘派に入れ込んでいるところをみると、案外バリバリの忍者だったのかもしれません。

 

なんの話か分からなくなってきたので、ここらで一旦終わりにします。(つづく)

 

三木城レクイエム

信長に逆らった別所氏を、秀吉が籠城で追い込んだ「三木の干殺し」の現場検証に行ってきました。戦国の世とはいえ、凄惨な飢餓地獄で敵を追い込むなんて、秀吉もひどいことをします。

 

三木城に立っていた案内板

三木城城主の別所長治の名を知ったのは、ファミコンの「信長の野望・全国版」だったですなあ。「全国版」は大名が(たとえ寿命であっても)死んだらゲームオーバーというシステムだったので、強大な「もうりもとなり(63さい)」よりも、弱小であっても「べっしょながはる(6さい)」の方が全国制覇できる可能性が高かったんだよなあ。当時はわたしも若くて、ゲームをしながらつくづく「若いってことは良いことだ」と思ったものでした。(現実の6さいに全国制覇は無理ですが…。)

 

 

別所長治公の雄姿!割と最近作られたものでした

三木城本丸

お城の本丸には、長治辞世の歌が刻まれていました。

「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命にかわる 我が身と思えば」

 

このとき22才くらいだったのでしょうか。

今の大学生くらいの年齢で、家を背負って最後こんな歌を遺して死んでしまうなんて、現代ではちょっと考えられません。長治の無念は、わたしがファミコンの「べっしょ」で全国統一を2度果たすことによって、ちょっとだけ晴らすことができ……るはずないじゃないか!

 

場所が場所だけに、夜はちょっと近寄れないと思います

 

三木城の割と近くにある竹中半兵衛のお墓参りもしてきました。

病で体調がすぐれなかった半兵衛は、三木城攻めから離れて療養していましたが、最期を悟り「戦場で死にたい」とまた三木城に戻ってきて、この地で亡くなったそうです。

 

 

 

最寄駅から結構離れた場所にポツンとあったお墓でしたが、お花がたくさん手向けられていて、実際わたしが滞在した短い時間にも、お参りの人が複数訪れました。やっぱり半兵衛は人気ありますね。

 

30代半ばで亡くなってしまい、自分の能力をもっとふんだんに世に示したかったであろう半兵衛の心の内を思うと、胸に詰まるものがあります。

ただ、半兵衛と何かと対比される黒田官兵衛が、割と長生きしたことで何だか生臭くなってしまったのに対して、半兵衛は若死にしたことによって後世に爽やかな印象を残したような気もします。結果的に得をしているのは、半兵衛でしょう。(つづく)