石山寺に行きました。名前のとおり、石の山が格好よかったです。

はるかな昔、締め切りに追われた紫式部が、この寺に「缶詰」になって源氏物語をキイキイ唸りながら書いたという伝承があるそうです(一部筆者が勝手に脚色)。そのことが本当なのかは分かりませんが、最近の京都とかのお寺にない良さがありました。


何が良いって、外国人がいないのが良い!京都からちょっと外れるだけで、こんなに落ち着くのか。
最近の一部風潮のように、外国人を排斥したいとか別にそんな感情は毛頭ありませんが、京都とかの有名観光地に行くと、正直やっぱり外国人が鬱陶しい。欧米人はやたらとデカくて鬱陶しいし、中国人はやたらと大声で鬱陶しい。
あまりにも勝手な言い分ではあるけれども、寺には文化系のヒョロッとしたおとなしめの人々が来るべきであり、少なくともわたしが参拝したときにそういう人しかいない気配であった石山寺は、なんだかとても落ち着いた雰囲気がありました。(書いていて思ったのですが、日本人にもデカくて大声な人はいるけれども、そんな体育会系の人は寺には興味がなくて来ない。外国人にも小柄で静かな人はいるけれども、そういう人は行動力が弱めで日本までは来ない。そういうことのような気がします。)
次に、近くの瀬田の唐橋に行きました。

今となっては、別にどこにでもありそうな瀬田の唐橋
「明日は瀬田に我が旗を立てよ」
わたし自身の瀬田のイメージといえば、武田信玄がいまわの際につぶやいたとされるこのセリフと、その後滅亡に向かっていった武田家の儚き運命とが、ない交ぜになった悲哀に満ちたものです。
いまの瀬田の水上には、信玄の無念ではなく、前回大会の無念をはらすべく、大学のボート部と思われる学生がせっせと練習を繰り返していました。
さらに足を延ばして、建部大社へ。

どうでもよいことですが、わたしの地元鹿児島にも建部神社という所があって、最近、下にトンネルを掘られてしまって、トンネルの上に乗っかる守り神みたいな立ち位置にさせられています。こんな適当なことやってバチが当たらないのかと冷や冷やしますが、ここのは日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る近江国の一之宮らしく、立派なものですねえ。
ただ、ヤマトタケルといえば、我ら鹿児島人にとっては、ご先祖クマソを倒した憎き敵ですな。鹿児島の建部神社もご祭神はヤマトタケルらしいのですが、神社下に平気でトンネルを掘るあたり、今でも鹿児島人はヤマトタケルをあまり敬ってはいないようです。

今の滋賀県が近江国だった頃、この辺りは日本の東西勢力の決戦場所であったようで、ここを保てた方が政権を握るといったところがあったようです。
この建部大社も、そんなことから何度も戦場になって燃えている。今も滋賀県民が大阪や京都の人とケンカになったとき、「琵琶湖の水止めたろか!」とタンカを切るそうですが(ホントかは知りませんが)、滋賀は昔からとても重要な地であったことは間違いないでしょう。

大津市のコンビニに売ってました
さて、本日の最後は、木曾義仲の眠る義仲寺(ぎちゅうじ)へ。
寺の名前からして、ここが義仲にいわれのある場所であることは予想がついていましたが、松尾芭蕉も、旅に病んで夢は枯野をかけ廻った後に、このお寺に収まったのですね。不勉強でした。


義仲が大好きだった本人の希望もあって、芭蕉はこの寺に葬られたそうで、今では狭い敷地で一緒に枯野をかけ廻っています。バリバリ武闘派の義仲を、文人派の芭蕉がそこまで推すイメージが今一つピンとこないのですが。
ただ、芭蕉の人物としてのイメージは、いかにも日本人好みの彼の句の印象も相まって、後世の人々が勝手に作りあげていったのかもしれず、ご本人は結構、武闘派・マッチョ系だったのかもしれません。実は忍者だったのではないか、なんて説もありますしね。
わたし自身も芭蕉に対しては、「旅に病んで…」の句のイメージが強すぎて、ガリガリの印象を持っているのですが、義仲というゴリゴリの武闘派に入れ込んでいるところをみると、案外バリバリの忍者だったのかもしれません。
なんの話か分からなくなってきたので、ここらで一旦終わりにします。(つづく)