拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

四国本格的にぶらぶら(3)~長宗我部家の栄光と悲劇

高知県民が誇る歴史上の英雄は、何と言っても坂本龍馬でしょうが、この地でもう一人、戦国時代に際立った輝きを見せたのが長宗我部元親でした。

 

人呼んで「土佐の出来人」。ドラえもんでは、出木杉君の役どころ。

しかしこの出木杉君、子どもの頃はパッとしなかったようですね。色白で気弱でモジモジしてて、とてもじゃないが、戦国の世を生き抜いてゆく器量を持っているようには思われなかった。

家臣からですら、「姫若子(ひめわこ)」=女のようにひ弱な若君と呼ばれてバカにされていたようですから、出木杉どころか、これはのび太だ。

 

のび太なので、戦に役立つとは思われなかったのか、23歳での初陣という大変遅い年齢での戦国デビューとなったのび太…、いや長宗我部元親

ところが、どうしてどうして!

この初陣で意外にも鬼人の如き猛烈な働きを見せた元親は、のび太ではなく出木杉君であると皆から認められ、戦が終わったときには「鬼若子」と称賛されたのでした。

 

高知市若宮八幡宮にある長宗我部元親初陣の像

 

さて、その後順調に勢力を伸ばし、土佐一国はもとより、四国全土を掌中に収める勢いを示した元親でしたが、「全国区」の武将となったことで試練が次々と襲い掛かります。

 

最初は織田信長との対立。

当時、畿内を制し、中国地方にまで勢力を伸ばしつつあった信長。四国の大勢力となっていた元親は、当然警戒の的となります。

「土佐一国で我慢せい!」

と圧力を加えてきた信長ですが、元親とすれば、土佐以外の四国三国も、自分たちの血でもって切り取ってきた領地。「そうですか」と、簡単に飲めるわけはありません。

このときは、明智光秀をうまく使って信長を葬り去った元親ですが(長宗我部側の視点からは、このような本能寺の変解釈も成り立つかもしれませんね。)、次は豊臣秀吉が攻めてきて、これにはなすすべもなく降伏。結局、土佐一国のみに押し込まれてしまいました。

 

ただ、ここで済んでいれば、長宗我部家はおそらく幕末まで土佐の大名でいたはずであり、それなりの栄華を手にすることができたはずです。しかし元親の運は、既に尽きていました。

 

元親には、信親という自慢の息子がいました。

若いながらも器量抜群。人柄も素晴らしく、家臣からも領民からも慕われる正真正銘の出木杉君二世でした。豊臣家の傘下には入りましたが、信親という頼もしい跡継ぎがいて、元親は長宗我部家の未来に憂いはなかったに相違ありません。

しかしながら、敗軍の将の悲しき定め。元親と信親の親子は、秀吉の命により、行きたくもない九州に行かされ、戦いたくもない島津勢と戦う羽目になってしまいます。

 

このとき、九州攻めを行なった豊臣軍の実質的な総大将が、仙石秀久というバカ(長宗我部史観に基づく判定)。

秀久には、自分で九州を制圧して手柄を得るのだという気負いがあったのか、それとも薩摩の芋侍なんぞ相手ではないという蔑む気持ちがあったのか、援軍が揃うまで待つべきだという長宗我部親子などの進言を無視して島津勢と戦い、コテンパンに負けてしまいます(戸次川合戦)。

将来を嘱望されていた信親は、この戦いで無念の戦死。まだ22歳の若さでした。元親も命からがら虎口を脱し、土佐に戻りました。

 

元親には、大変なダメージがあったと思います。何はなくとも、長宗我部家は跡継ぎがしっかりしている。それが瞬時に消え去った。

ただ、長男信親は死にましたが、まだ次男、三男の跡継ぎ候補がいました。長宗我部家の灯が消えたわけではない。しかし、元親はもう以前の英邁な君主ではありませんでした。

元親が跡継ぎに選択したのは、なぜか四男の盛親。家中はまとまらず、これに反対した家臣を粛清したり、反発した三男を幽閉したり、ぐちゃぐちゃの状況に陥りました。盛親による「兄殺し」まで起き、長宗我部家の最期は、安物のドラマを見ているかのような陳腐な転落ストーリーで幕を閉じていきます。

元親は信親の死を契機として発狂したのかもしれず、このために家中の多くの人々が死に、長宗我部家の急速な弱体化とその後の滅亡に繋がってしまいました。

 

 

元親のお墓は、高知市内の住宅街の一角にひっそりと建っていました。四国を席巻した一代の英雄のお墓にしては、少し寂しいもののように感じられました。

 

出木杉のび太に及ばざるが如し。

長宗我部亡き後の土佐は、出木杉にはるかに及ばぬものの、しずかちゃん的妻に支えられ尻を叩かれ続けて、乱世でそれなりに出世したのび太、もとい山内一豊が治めていくことになります。

四国本格的にぶらぶら(2)~土佐一条氏の野望

歴史教科書では、平安時代をもって公家の時代は終わりを迎え、それ以降は武家の時代に移行したと教えています。

それはまあ、そうなのでしょうが、ではなぜ幕末にも公家はやっぱりちゃんといて、しかも明治維新の際には何らかの中心的役割を果たすまでの存在たり得たのか、そういうことは書かれていないように思われます。(最近の教科書の中身は知りませんが。)

 

私たちのイメージでいう「お公家さん」は、少なくとも戦国時代以降は気位のみ高くて、弱弱しくて貧乏。こんな感じがします。

でもやっぱり人は色々であって、どんな身分の人たちも一筋縄ではいかない人がいる。そんなことを感じました。

 

高知県の西部に四万十(しまんと)市という町があります。ここの中心である中村という町に寄りました。

 

 

なんと「御所」があります!

 

ふん、どうせ地元の田舎豪族が、ミエはって大層な名前つけたんだろう。

…と思っていたら、ここは正真正銘の由緒ある貴族が館を構えていた所らしいですね。

 

応仁の乱の頃以降のことのようですが、そのころ日本全国の秩序はもう滅茶苦茶。

武家政権のトップである足利幕府ですら、ほとんどあってないような存在に落ちぶれてきて、地方の実力者が戦国大名化し、「力のみが正義」といったヒャッハーな時代に突入していきます。

このような中でも、天皇家や由緒ある貴族たちは、ヒャッハーなモヒカンどもに翻弄されつつも辛うじて命脈を保ち、ある者はツテを頼って強い大名の元に身を寄せたり、別のある者は何の意味も持たなくなった官位を金で売り飛ばしたりして、なんとか雨露をしのいでいました。

 

哀れな状況に転落していた貴族でしたが、中にはやっぱり変わり者がいたようです。ここ土佐中村に所領を持っていた「一条何某」という人が、

「もう都には住めんでおじゃる。余は、余の所領がある土佐中村に引っ越して、好き放題ぜいたくするでおじゃるよ」

とか言い出しました。

 

たぶん側近の公家が、

「いや、所領と言っても、もはや地元のモヒカンどもが好き放題ヒャッハーとやっておりまする。住めるような場所ではありませぬ」

と言って慌てて止めたのでしょうが、

 

「何を言うか!余は前(さきの)関白でおじゃるぞ!」

とか意味不明の我がままを言って、かつてきらびやかであった都を後に、草深い土佐の領地にやってきてしまったのでした。

 

繰り返しますが、この頃、力のみが正義です。領主なんて、形だけのものでしかない。

この地を荒らしまわっていたモヒカンどもの武力を持ってすれば、京都で食えなくなって、今更ながらに領主ヅラしてノコノコ下向してきたこんなおじゃる丸、一蹴できたはずです。

しかしながら、あまりの世間知らずぶりと、前関白という、本来であればモヒカンどもが近寄ることすら許されないようなあまりの高貴さが功を奏したのか、モヒカンは何の力も持たないおじゃる丸にひれ伏してしまいました。

 

おじゃる丸…、いや一条氏は領地経営もうまかったようで、家格の高さを利用して周囲の紛争を調停したり、中村の地を京都風にアレンジしたりして、さらに外側にまで勢力を拡げていく勢いの良さを示します。結局5代約100年間、戦国末期に長宗我部元親が侵攻してくるまで、この地を支配し続けました。

おじゃる丸、恐るべしでおじゃる。

 

今の中村を歩いてみると、昔ながらの風情といったものはほとんど残っていないように思われましたが、道が狭く碁盤上になっていて、確かにここが「御所」の地であったことが感じられました。

こういう教科書的ではない「イレギュラー」な歴史って、とても面白いですね。滅びゆく流れにあった者が、どっこい活路を切り開く。なんだか元気が出てきます。

 

町をさらにぶらぶら歩いていると、幸徳秋水のお墓がありました。秋水はここの人だったのか。下調べなく旅に出るのも、思わぬ「出会い」につながります。

秋水も、言わばイレギュラーな人。そのことが、後の人々にとてつもなく大きな影響を与えたことは、私などがここで言うまでもありません。

 

中村から少し離れた所に、日本最後の清流といわれる四万十川が流れています。

せっかくなので足を延ばしてみたのですが、「ウサン臭いヤツめ!ヒャッハー!」と絡まれたので(猫に)、退散しました。

 

  

 

四国本格的にぶらぶら(1)~伊達秀宗の鬱屈

今回はじゃこ天食っただけで帰る羽目になりましたが、愛媛南部から、今度は高知をいずれ攻めたいと思っているので、次回も待ってろよ、じゃこ天!

 

↑ この記事をアップしたのが2020年10月24日(四国ちょっとだけぶらぶら(2))。

はや2年半以上経ちました。時間はものすごい速さで駆け抜けていくようです。

 

で、じゃこ天食べに、ようやく行ってきました。

 

 

今回は別府港から愛媛県八幡浜港へ。

港乗り場のこういう光景は、なんとも旅情をそそりますね。

約2時間半の船旅でした。

 

 

宇和島に着きました。

海際なのに、早くも目の前に険しい山々が迫ってくる。そんな小さな平地の上に築かれているのが、宇和島の町です。小ぶりな町ですが、現存12天守のひとつ、宇和島城天守閣が今も睨みをきかせていることで、ありふれた地方都市とは異なる風情があります。

町の空気が締まっている。城下町の程よい緊張感が、令和になっても残っているようです。

 

宇和島といえば、幕末四賢候のひとり伊達宗城(むねなり)が有名ですが、今回は宇和島伊達氏の初代、秀宗のことを思ってみました。

「伊達」といえば、東北。そもそも、なにゆえ四国のこんな隅っこに伊達が移ってきたの?調べてみると、予想した通り少々複雑な事情がありました。

 

宇和島伊達藩初代藩主の伊達秀宗は、かの独眼竜、伊達政宗の長男として生まれています。ただ、お母さんが側室だったので、カッコつきの長男。正室に男の子が生まれたら難しい立場になる。

それでもしばらくは、正室から男の子が生まれなかったことや、事実上の人質として預けられた豊臣秀吉にかわいがられたこともあって、伊達家の御曹司として大切に育てられます。秀宗の名も、秀吉からもらって付けたものです。

 

このままだったら、秀宗は本家・仙台伊達藩の第2代藩主として、何の問題もなく父政宗の跡を継いでいたでしょう。しかし、そうはならなかった。

まず正室に男の子が生まれます。さらには関ヶ原合戦を経て、政権が事実上徳川に移ります。秀吉の身近で薫陶を受け、名前までもらってベタベタの豊臣寄りとみなされた秀宗は、これでアウト。仙台藩は秀宗の弟が継ぎ、秀宗はただの厄介者になり果てました。

 

秀宗本人とすれば、自分の責任ではまったくないわけで、たまったもんじゃないですよね。

ただ、父政宗としても、難しかっただろうと思います。秀宗に難癖つけて「粛清」しても、何もしないでそのままにしておいても、どちらにしてもお家分裂の火種になる。そこで政宗は持ち前の政治力を発揮して、遠く四国に土地をもらって、そこに秀宗をすえた。歴史書などにどう書いてあるのか私は知りませんが、内実はそんなところだろうと考えられます。

天下にとどろく東北の雄藩を継いだ「弟」を、時代に翻弄された「兄」はどのような気持ちで眺めていたのか。穏やかな南予の気候が、秀宗の心をせめて少しでも軽いものにしてくれていたのなら、ちょっとだけ慰められるような思いがします。

 

努力がすべて報われるとは限らない。

思うようにならない人生を何とか生き抜いた人間の、あるひとつの典型として伊達秀宗をとらえるならば、後世が与えている秀宗の価値は、もう少し上にしてあげても良いような気がします。

 

海と山、以上!…といった感じの宇和島の風景(宇和島城天守閣から)

西寒田(ささむた)神社の藤の花

写真撮ってから、もう1か月経ちましたが、見事な咲きっぷりだったので残しておきたいです。

 

 

桜が咲き、散ったら藤が咲き、ツツジが咲き。

春は、いろんな色彩を次々と楽しむことが出来ますね。

 

 

 

じゅうたんにダイブしたい。

バキバキ!   (コラー!キサマ!)

 

城と桜3(日出城)

日出(ひじ)城の桜には、ギリギリ間に合いませんでした…。

 

 

 

まだ花はかろうじて咲いてはいましたが、そよ風でも散ってしまうほど。

着いたのが夕方の時間で、散っていく花びらが次々と夕空に溶けていきました。

 

日出城は、私が大分で一番好きなお城です。

なんと言っても海のすぐそば。

いつ行っても静かで、石垣の上に立つと、やさしいさざ波の音が迎えてくれます。

 

見晴らしも良くて、お城から別府湾が一望できます。

右側に別府市の湯けむり。左側に大分市の工業地帯。

大分の二大都市が、それぞれどうやって食っているかが見て分かります。

 

海もとてもきれいです。

この海で捕れるのが、有名ブランド魚の「城下(しろした)カレイ」。お城の下の海にいるから「城下」なんですね。明治になるまでは殿様の魚として大切に扱われ、庶民が食べることは許されなかったようです。

佐賀関の「関サバ」といい、大分は意外に(?)ブランド戦略が上手です。

 

昼間の日出城からの風景

 

日出城を作ったのは、木下延俊。

この方、豊臣秀吉の奥さん、おねさんの甥っ子なんですね。延俊の弟が、関ヶ原で史上に残る裏切りを行なった小早川秀秋

 

これだけ秀吉に近い縁者であれば、関ヶ原以降は徳川家への顔色を伺うことで大変だったと思います。

しかもかの裏切り者、秀秋の実兄。「東」からも「西」からも白い眼で見られかねない。両陣営から難クセつけられて、すぐに滅ぼされてもおかしくはありません。

それでも生きていかなければならない。家を継いでいかなければならない。

 

今を生きるごく普通の人々が、過去の歴史から学ぶとするならば、秀吉や家康といったずば抜けた英雄の話ではなくて、地味ながらも相当の苦労をして、それでも後世まで血統を保った木下家のような存在からの方が、得ることが大きいような気がします。

 

でも木下家の「大河」では、視聴率取れないなあ…。

いやまてよ。『白い巨塔』のような山崎豊子テイストでいくなら、結構盛り上がるんじゃないだろうか…。

 

まあ後世の私たちは、こんな感じで過去の時間に対して好き放題、高みの見物ができますが、実際の時代を必死に生きてきた木下家はそれどころじゃない。

ストレスがたまっていたのか、近くにある木下家のお墓はやたらとでかいです。

 

せめて墓の大きさで、徳川家にうっぷん晴らしじゃ~!

 

現代の日出町雑感。

私は地元民ではないので、あまり詳しくは存じ上げないのですが、ここ日出町は平成の市町村合併を経てもそのままのようなんですね。小さな町ですし、隣の別府市とかと一緒になっても良かっただろうに。

 

でも鉄道で一直線に別府・大分へも福岡方面へも行けるし、現在大分市民である私にとって絶望的な遠距離にある大分空港も、ここからは割と近い。

大分都市圏に隣接することで近郊農業も採算立ちそうですし、漁業は先ほどのブランド魚があります。工業も大分市や空港近くの国東にたくさんあって、通勤でもそれほどの負担になる距離ではない。

 

よくある財政難等から周囲に毛嫌いされて「合併できなかった」のではなく、逆に恵まれているから「合併しなかった」選択を取ったのだろうと思います。最近の日出町の人口の増加ぶりを見ても、それは今のところ成功しているような印象があります。

 

 

ここから大分市に戻る途中に、私営の道の駅のような所があります。

そこになぜか、岐阜、長野、石川といった中部地方の、しかもあまりその地区以外では売っているのを見かけない日本酒があります。

 

そりゃ行きますよね。もちろん。

『女城主』なんて、名古屋勤務のときに一度だけ行った岐阜・東濃の岩村城で、「生涯の一本」だなあ、なんてそのときは思って買って飲んだのに、大分に来て日常的な生活範囲の場所にいつも置いてあるとは。

そういう点でも、私にとって日出はお気に入りの場所です。

 

城と桜2(臼杵城)

臼杵城の桜にも、何とか間に合いました。

 

 

個人的には、丹生島(にうじま)城と呼んだ方が感慨があります。

 

戦国の大友時代の末期、今の大分県エリアの中心はここ臼杵にありました。

当時、この城は丹生島城と呼ばれていて、薩摩の島津氏が大分に攻め込んだ豊薩合戦ではこの城も舞台になりましたが、城にこもった大友軍はポルトガルから取り寄せた最新のフランキ砲をぶっ放すなどして、島津軍を退散させています。

 

3年前のコロナ期真っ只中に来たときは人も少なくて、城内に咲き誇る桜を堪能できましたが、今回はレジャーシートを敷いた花見客がわんさか。

お城は早々に退散しました。

 

 

臼杵はお城以上に、その近辺が風情があります。

 

↑ こんな感じの所とか、

 

↑ こういう感じ。

 

↑ こういう所も良い。

 

昔の区画がたくさん残っていて、「観光ルート」から外れた所にも迷路のように路地が広がっていて、退屈しません。

 

少し足を延ばすと、美しい三重塔を持つお寺が見えてくるのですが、10年がかりの改修工事に入るらしく、覆いがされていました。残念。

 

 

さらに足を延ばすと、これは今回初めて行ったのですが、福良八幡宮という神社にたどり着きました。

 

 

 

大分に限りませんが、そう観光地でもなくて、でも「あら、いい感じの所」と思った場所には、大体寅さんがすでに入っている。

山田洋次監督、心底恐るべしです。(どういう情報網を持たれていたのか…。)

 

お城の中の桜は、人わんさかで今回撮る気がしなかったので、3年前の写真を代わりに載せておしまいにします。

これが臼杵城の桜だ!

 

 

 

城と桜1(岡城)

今年の大分の桜の季節は、終わってしまいました。

名残を惜しみ、写真を貼っておきますか。

 

 

お城と桜って、なんだか似合いますね。

個人的に、大分県内でこのセットが一番はまっていると思うのは、岡城(竹田市)です。

 

岡城といえば、このお方。

 

 

レンタロー先生です。

 

先生は、幼少期竹田で暮らしており、ガキ(男の)にありがちな性分として、荒れ果てた岡城の「探検」とかもしていたでしょう。それが名曲「荒城の月」を生み出したのかも。

今の岡城は、もう荒城ではありません。きれいに整備され、城内にこのような立派な先生の像も建てられている。

 

 

どうでもよいのですが、岡城のちょっぺんをうろついていると、「荒城の月」のワンフレーズだけがやたらと聴こえてきます。

近くを通る道路のアスファルトに細工がしてあって、車が通過すると「はるこうろうの~ はなのえん~」が流れてくる仕掛けです。

 

音程が様々。やたらと高音であったり、じっくり低音であったり。

スピードを出しすぎると高音になってしまうようです。ソプラノは捕まるかも。バリトンくらいが安全のためにはよろしい。

ホント、どうでもよいですが。

 

荒城と月(右上に。どうでもよい。)

 

もう何度目かなのに、今回ようやく初めて知ったのですが、もともとの岡城は、今の駐車場から登っていくルートではなく、別の方面が正面ルートだったみたいです。

これがその痕跡のようです。

 

 

城の脇を流れる大野川が天然の堀の役割で、ここに橋があったみたいですね。(ちなみに、この大野川をはるか下流に下っていくと、島津と豊臣が激突した戸次(へつぎ)川合戦の場所に着きます。同じ川が戸次村では戸次川と呼ばれていた。)

 

 

 

だいぶ朽ちていますが、ちゃんと残っていました。こっちは「荒城」っぽい感じです。

 

それにしても、堅牢な城です。

 

 

(当然ながら)柵もなくて、何かの拍子に足を踏み外したら、もうそれまで。子どもが落ちたり、自殺者が出てもおかしくないような絶壁ですが、特にそんな話は聞きませんね。

柵がなければ、それなりに人々それぞれに心の柵ができて、たとえば子どもを近づけさせないように心配りしたり、色々防御するんじゃないでしょうか。今は世の中自体が「過保護」になりすぎているのかもしれませんね。

 

 

桜以外もたくさんの野の花が散らばっていたので、これも残しておきましょう。

 

  

  

  

 

 

人が誰も通らない側道も、桜は満開でした。

 

 

本質的にいえば、花は人のために咲くのではない。

株式的にいえば、「人の行く 裏に道あり 花の山」。