今回はじゃこ天食っただけで帰る羽目になりましたが、愛媛南部から、今度は高知をいずれ攻めたいと思っているので、次回も待ってろよ、じゃこ天!
↑ この記事をアップしたのが2020年10月24日(四国ちょっとだけぶらぶら(2))。
はや2年半以上経ちました。時間はものすごい速さで駆け抜けていくようです。
で、じゃこ天食べに、ようやく行ってきました。
港乗り場のこういう光景は、なんとも旅情をそそりますね。
約2時間半の船旅でした。
宇和島に着きました。
海際なのに、早くも目の前に険しい山々が迫ってくる。そんな小さな平地の上に築かれているのが、宇和島の町です。小ぶりな町ですが、現存12天守のひとつ、宇和島城天守閣が今も睨みをきかせていることで、ありふれた地方都市とは異なる風情があります。
町の空気が締まっている。城下町の程よい緊張感が、令和になっても残っているようです。
宇和島といえば、幕末四賢候のひとり伊達宗城(むねなり)が有名ですが、今回は宇和島伊達氏の初代、秀宗のことを思ってみました。
「伊達」といえば、東北。そもそも、なにゆえ四国のこんな隅っこに伊達が移ってきたの?調べてみると、予想した通り少々複雑な事情がありました。
宇和島伊達藩初代藩主の伊達秀宗は、かの独眼竜、伊達政宗の長男として生まれています。ただ、お母さんが側室だったので、カッコつきの長男。正室に男の子が生まれたら難しい立場になる。
それでもしばらくは、正室から男の子が生まれなかったことや、事実上の人質として預けられた豊臣秀吉にかわいがられたこともあって、伊達家の御曹司として大切に育てられます。秀宗の名も、秀吉からもらって付けたものです。
このままだったら、秀宗は本家・仙台伊達藩の第2代藩主として、何の問題もなく父政宗の跡を継いでいたでしょう。しかし、そうはならなかった。
まず正室に男の子が生まれます。さらには関ヶ原合戦を経て、政権が事実上徳川に移ります。秀吉の身近で薫陶を受け、名前までもらってベタベタの豊臣寄りとみなされた秀宗は、これでアウト。仙台藩は秀宗の弟が継ぎ、秀宗はただの厄介者になり果てました。
秀宗本人とすれば、自分の責任ではまったくないわけで、たまったもんじゃないですよね。
ただ、父政宗としても、難しかっただろうと思います。秀宗に難癖つけて「粛清」しても、何もしないでそのままにしておいても、どちらにしてもお家分裂の火種になる。そこで政宗は持ち前の政治力を発揮して、遠く四国に土地をもらって、そこに秀宗をすえた。歴史書などにどう書いてあるのか私は知りませんが、内実はそんなところだろうと考えられます。
天下にとどろく東北の雄藩を継いだ「弟」を、時代に翻弄された「兄」はどのような気持ちで眺めていたのか。穏やかな南予の気候が、秀宗の心をせめて少しでも軽いものにしてくれていたのなら、ちょっとだけ慰められるような思いがします。
努力がすべて報われるとは限らない。
思うようにならない人生を何とか生き抜いた人間の、あるひとつの典型として伊達秀宗をとらえるならば、後世が与えている秀宗の価値は、もう少し上にしてあげても良いような気がします。