歴史教科書では、平安時代をもって公家の時代は終わりを迎え、それ以降は武家の時代に移行したと教えています。
それはまあ、そうなのでしょうが、ではなぜ幕末にも公家はやっぱりちゃんといて、しかも明治維新の際には何らかの中心的役割を果たすまでの存在たり得たのか、そういうことは書かれていないように思われます。(最近の教科書の中身は知りませんが。)
私たちのイメージでいう「お公家さん」は、少なくとも戦国時代以降は気位のみ高くて、弱弱しくて貧乏。こんな感じがします。
でもやっぱり人は色々であって、どんな身分の人たちも一筋縄ではいかない人がいる。そんなことを感じました。
高知県の西部に四万十(しまんと)市という町があります。ここの中心である中村という町に寄りました。
なんと「御所」があります!
ふん、どうせ地元の田舎豪族が、ミエはって大層な名前つけたんだろう。
…と思っていたら、ここは正真正銘の由緒ある貴族が館を構えていた所らしいですね。
応仁の乱の頃以降のことのようですが、そのころ日本全国の秩序はもう滅茶苦茶。
武家政権のトップである足利幕府ですら、ほとんどあってないような存在に落ちぶれてきて、地方の実力者が戦国大名化し、「力のみが正義」といったヒャッハーな時代に突入していきます。
このような中でも、天皇家や由緒ある貴族たちは、ヒャッハーなモヒカンどもに翻弄されつつも辛うじて命脈を保ち、ある者はツテを頼って強い大名の元に身を寄せたり、別のある者は何の意味も持たなくなった官位を金で売り飛ばしたりして、なんとか雨露をしのいでいました。
哀れな状況に転落していた貴族でしたが、中にはやっぱり変わり者がいたようです。ここ土佐中村に所領を持っていた「一条何某」という人が、
「もう都には住めんでおじゃる。余は、余の所領がある土佐中村に引っ越して、好き放題ぜいたくするでおじゃるよ」
とか言い出しました。
たぶん側近の公家が、
「いや、所領と言っても、もはや地元のモヒカンどもが好き放題ヒャッハーとやっておりまする。住めるような場所ではありませぬ」
と言って慌てて止めたのでしょうが、
「何を言うか!余は前(さきの)関白でおじゃるぞ!」
とか意味不明の我がままを言って、かつてきらびやかであった都を後に、草深い土佐の領地にやってきてしまったのでした。
繰り返しますが、この頃、力のみが正義です。領主なんて、形だけのものでしかない。
この地を荒らしまわっていたモヒカンどもの武力を持ってすれば、京都で食えなくなって、今更ながらに領主ヅラしてノコノコ下向してきたこんなおじゃる丸、一蹴できたはずです。
しかしながら、あまりの世間知らずぶりと、前関白という、本来であればモヒカンどもが近寄ることすら許されないようなあまりの高貴さが功を奏したのか、モヒカンは何の力も持たないおじゃる丸にひれ伏してしまいました。
おじゃる丸…、いや一条氏は領地経営もうまかったようで、家格の高さを利用して周囲の紛争を調停したり、中村の地を京都風にアレンジしたりして、さらに外側にまで勢力を拡げていく勢いの良さを示します。結局5代約100年間、戦国末期に長宗我部元親が侵攻してくるまで、この地を支配し続けました。
おじゃる丸、恐るべしでおじゃる。
今の中村を歩いてみると、昔ながらの風情といったものはほとんど残っていないように思われましたが、道が狭く碁盤上になっていて、確かにここが「御所」の地であったことが感じられました。
こういう教科書的ではない「イレギュラー」な歴史って、とても面白いですね。滅びゆく流れにあった者が、どっこい活路を切り開く。なんだか元気が出てきます。
町をさらにぶらぶら歩いていると、幸徳秋水のお墓がありました。秋水はここの人だったのか。下調べなく旅に出るのも、思わぬ「出会い」につながります。
秋水も、言わばイレギュラーな人。そのことが、後の人々にとてつもなく大きな影響を与えたことは、私などがここで言うまでもありません。
中村から少し離れた所に、日本最後の清流といわれる四万十川が流れています。
せっかくなので足を延ばしてみたのですが、「ウサン臭いヤツめ!ヒャッハー!」と絡まれたので(猫に)、退散しました。