拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

奈良ちょっとだけぶらぶら(2日目)

2日目は奈良へ。まずは斑鳩中宮寺に向かいました。

 

中宮寺はご本尊の菩薩半跏像がとびきり有名です。

昨年福岡に来たときに見に行き、このブログでも以前紹介したところですが、やっぱり「本拠地」での本来の舞台装置でのお姿を拝見したいと思い、向かった次第です。

 

この奥にご本尊がおられます

 

中宮寺は、有名な法隆寺のお隣です。

法隆寺は20年くらい前に訪れたことがあるのですが、法隆寺を中心にみると隅に追いやられたような場所にある中宮寺には、当時は興味をそそられずスルーしてしまいました。今回は法隆寺より先に中宮寺に行く。私も趣向が変わってきました。

この仏様が、昨年福岡までわざわざ出向いて来られたのは、収まっている本堂が修復工事中だったからなのですね。修理が終わって、両側に脇仏を従えて、福岡で見たときよりも堂々と威厳高く見えました。

 

撮影禁止だったので、「写真の写真」でご勘弁

 

さて中宮寺を堪能した後は、隣の法隆寺の前を素通りして、正反対側にある藤ノ木古墳に行きます。

 

 

かつて大騒ぎになった古墳ですね。盗掘がされておらず、出来た当時のまま発見された。まさに古代からのタイムカプセルでした。

すぐ近くの資料館に、発掘当時の石棺内の様子を復元した精巧なレプリカが展示されているのですが、長い年月を経て人骨はほとんど残っておらず、ただ周囲にきらびやかな副葬品が散らばっている様が印象的でした。

 

男性二人が同じ石棺内に収められているとのことですが、一体誰なのか?どのような二人なのか?どのような経緯でここに収まったのか?残された人々はどのような心情で棺の中に膨大な数の副葬品を置いたのか?

想像すれば面白く、色々と感じるところがあります。

 

ようやく法隆寺に来ました。

 

 

まあ、ここはあまりにも有名ですから、私ごときがゴタクを並べる必要もないでしょう。ただ、御朱印に並ぶ人が多すぎて、よく見られない場所があった。

最近、御朱印がブームですね。個人的にはあまり興味をいだかないのですが、他の寺社でも同じようなことがあり、好きな方には申し訳なくもあまり良い印象がない。お守りじゃダメなんですかね。

 

「夢殿」も連休で長蛇の列

法隆寺の壁。本体よりこういう所の方が好きですな。

 

そういえば、以前金沢で蟹を食べたときに詠んだ歌がありました。

「蟹食えば 金が減るなり 法隆寺」 

同じ歌を思いついた人が日本全国に千人位いそうです。たぶん…。

 

さてさて、結構な長居をしましたが、もう少し時間がありそうです。奈良方面に戻りましょう。

 

唐招提寺金堂

 

唐招提寺も以前来たことがあったのですが、そのときには肝心の金堂が解体修理中とのことで、見ることができませんでした。

当時、向こう10年くらいは修理にかかるとのことでしたので、諦めとともに、10年も先まで見られないという、その膨大な時間の長さにちょっとした絶望を感じたものです。

いつの間にか修理期間の10年どころか、修理が終わってから更に10年くらい経ったようで、今度は自分の上を通りすぎていった時間の長さとその速さに、ちょっとした絶望を感じます。

 

ここのお寺といえば、鑑真様ですね。今さら言うまでもないスーパーチャイニーズ

当時の中国人からみた当時の日本人の印象というのは、今の感覚で言えば、ほとんど高崎山のサルを眺めているのと同じようなものだったのではないかと思われるのですが、そのサルどもが仏心を生じ、教えを乞うてきている。

 

「サルどもの言うことなど、ほっとけば良いではありませんか」

こんなことを言った人もいたであろう。

「何も鑑真様自らお出ましにならなくても」

こう止めた人もいたであろう。

しかも様々な理由で5回も日本行きに失敗し、その間失明もしたのに、命懸けで日本に来てくれた。

 

ちょっと例えようがないのですが、日本にようやくプロ野球らしきものが出来た昭和初期に、毎年タイトル総なめにしているバリバリの現役メジャーリーガーが、名誉も富も捨てて日本にベースボールとは何ぞやということを教えるためにやって来るようなものですかね。

日本などに行かせまいとする大リーグ機構や熱狂的ファンの妨害をくぐり抜け、来日するための船が難破し、次は飛行機が墜落し、それでも来てくれた。奈良時代の日本仏教界にとって、この仮想バリバリメジャーリーガー来日の数倍のインパクトを以て、日本に迎え入れたことだろうと思います。

 

令和時代、日中関係は何ともしっくりいかない状態が続いていますが、やっぱり日本が今の日本たり得るのは、隣に数千年間君臨し続けた中国という、圧倒的な、また良質な文明の照射を受けていたおかげであろうと思うのです。

明治になって一気に西洋文明への転換を図ることができたのも、そもそも文明を受容する体力があったからこそ上手くいった。人間の体力が、鍛えてもすぐにはつかないのと同じく、文明の体力というのも、それをつけるには数百年単位での時間がかかるのかもしれません。もし隣に中国がなければ、鑑真のような偉大な先達が命を懸けてくれなければ、今の日本は別の日本になっていたように思われます。

鑑真様卸廟

戒壇

こういう瞬間に「神」を感じます

 

唐招提寺の隣(といっても結構距離はありますが)は薬師寺です。

 

東塔と金堂

 

薬師寺は塔が美しい。昔の外国人がこの塔を見て「凍れる音楽」と評したそうですが、薬師寺はなんかですね、羽振りが良いのですかね。建物が次々に増えています。オーケストラ状態。

昔は東塔1本だったのが西塔できてツインタワー復活しましたし、以前来たときに無かった建物がいくつもできている。羽振り良すぎてタワーマンションまで出来るようなことにならなければよいのですが…。

 

今更ながらに次々に建つ天平建造物

 

夕方になって薬師寺からは追い出されましたが、まだ陽はある。最後に郡山城を攻めました。

  

 

ここのお城についても書きたいことはたくさんありますが、日が暮れかけていますのでやめておきます。

ただ、さすがに豊臣秀吉の弟、秀長が根拠地としただけあって、パッと外側から見たよりもはるかに壮大なお城のように見えました。

石垣には地蔵様まで埋め込まれてます。だから豊臣家は滅びたのではないのか?

 

豊臣支配期から江戸時代にかけて、今の奈良県の政治・経済の中心は奈良市にではなく、ここ大和郡山市にあったことになります。詳しくは知りませんが、恐らくは寺社勢力の強い奈良に対抗するべくこちらを本拠に定めたものと思われますが、明治になってもしそのまま奈良県庁が郡山に置かれていたら、今の奈良県はどんな感じだったのですかね。

歴史に「もし」はないとよく言われますが、「もし」を楽しむのが歴史を知る面白さでもあります。

天守台から大和郡山市内を眺める