拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

歴史を旅する 中津(2)

福沢諭吉旧居とそこに隣接する資料館が中津における歴史観光のハイライトの一つですが、そのすぐ近くにあるのが増田宗太郎旧宅跡です。

 

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増田宗太郎は福沢諭吉の又いとこにあたり(福沢が15才年上)、家もすぐ近所だったので幼少時は親しく付き合っていたはずですが、長じてから、なぜか福沢を暗殺しようと企てた人物。

国学に傾倒し尊皇攘夷を唱えていたということですから、今で言うと増田は「右側」の人。欧米渡航歴もあり、積極的に海外の文物を学ぶべきとの考えを展開してた福沢は当時としてはリベラルの位置づけでしょうから、二人の思想は合わなかったのでしょう。それにしても、これほど近しい関係の人物の命を狙わなくてもよいのに、とは思います。これは現代人の勝手な感覚なのでしょうか。

 

増田は、しかしながら暗殺失敗の後、なぜか福沢の主催する慶應義塾に入学。その後なぜか大きく思想の舵を切って自由民権運動に目覚め、地元中津において新聞発行を行なうなどの活動を行ないました。

やがて西南戦争が勃発したときに中津隊を組織し、なぜかある意味自由民権とは対局の思想位置にある西郷軍に身を投じます。そして戦況振るわず追い詰められた西郷軍が宮崎で解散命令を出し、薩摩人以外の多くがそれぞれの故郷に引いていった中で、なぜか増田率いる中津隊は鹿児島に最後までついて行き、城山の戦闘で滅亡のときを迎えました。増田の享年29。お墓は今も鹿児島にあります。

 

私にとっての増田宗太郎とは、その人生が「なぜか」の連続の人で、よくは分からない。ただ、この人の遺した言葉で、後世に伝えられる有名なものがあります。

「1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある」

西南戦争時に、中津という薩摩からみると他国人であるにもかかわらず、不利な戦況で最後まで西郷に従った理由として、増田が西郷の人となりを語ったと言われる言葉です。西郷の人徳を偲ばせるものとして知られていますが、実は増田という不思議な人物をとらえるカギが、ここにあるのではないか?

 

私の勝手な想像で、増田本人には大変失礼かもしれませんが、彼には福沢のような確固たる理想はなかったような気がします。「このような国にしたい」「このような人々を作っていきたい」。着地点は結局なかったのではないか。ただ感激屋で、その場そのときに接した物事や人物に熱く共感し、もしかしたら非常なお人好しで、引かなくてもよい貧乏くじを自ら進んで引いていったのではないか。

 

国学に接すれば感激して異端の徒である福沢を殺そうとし、その福沢に接すれば共鳴して慶應義塾で学び、西郷に接すれば心酔して自ら死地に向かう。彼の人生はその連続だったのかもしれません。この気性を真に有用とする何ごとかが見つかれば、増田は今知られているよりも遙かに後生に名を残す存在であったのかもしれず、素晴らしい能力を発揮しきれない生き方をしたと個人的には感じるところから、そういう意味では大変残念な気もします。まあそれも人生。仕方がない。

 

「これで良かったんだよね」

と問いかけたら、

「こうするしか、なかったんだよ」

と静かに、でもまんざらでもない表情で答える増田の姿が浮かんでくるような気がします。