拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

歴史を旅する 中津(3)

中津歴史旅はウンと遡り、時は戦国、軍師官兵衛の時代。

今の中津の土台を作ったのは、なんといっても黒田官兵衛でしょう。中津には「上如水」とか「姫路町」とかいった地名が今でも残っており、大分居住歴の浅い私は、そのような地名に接するたびに一人ワクワクしています。しょうもないな。

 

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中津城には立派な天守閣があります。格好いい!

戦国時代にも江戸時代にもなかった中津城天守が、なぜか令和の現代には屹立しているという不思議さ。この天守は「再建」ではなく、「創建」であります。昭和39年建設ということで、当時の状況からはこれでよかったのかもしれませんが、今こんなニセモノを作ったら歴史研究者からもマニアからも猛反発を喰らうでしょうな。まあそれだけ「歴史」が市民権を得てきた、まともな感覚が普通の人達に浸透してきたということにはなるかと思います。大げさではなく、歴史を正確に知ろうとする人々の多寡は、その国の民度を図る正確な物差しになると私は思います。

 

ナンクセをつけるのはここまでにして、この城の見所はやっぱりY字石垣でしょう。

 

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右側が黒田官兵衛築城時のもの。左側がその後に城主となった細川忠興のものと言われています。左側下の屋根はなぜかアヒル小屋でありまして、アヒルが1羽のんびり寛いでいました。

現在の大阪城の下に豊臣期の別の大阪城が隠れているように、普通は改修時に城は大きく形を変更して、従前のものが分からなくなることが多いのですが、中津城は両者がきれいに合体している。おかげで時代や築城者によって、同じ石垣といえどもだいぶ様相が異なるということが私のような素人にも理解できます。

そして、この合体石垣の上に昭和建築技術の粋を集めた天守閣が乗っかっているわけであり、さらにはアヒルも加わって完璧な四重奏を奏でています。グワッ、グワッ。(またナンクセが・・・。)

 

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初代城主は官兵衛。何年か前の大河ドラマ以来、それまでの地味な脇役のイメージからすっかり脱却した感があります。

黒田官兵衛孝高(よしたか)。言わずと知れた豊臣秀吉の片腕、名軍師。秀吉に天下を取らせた中国大返しをはじめ、その武功は数知れず。その一方、秀吉が死ぬ前後以降の官兵衛は、だいぶ精彩を欠く印象があります。朝鮮出兵時に石田三成を長々と待たせて碁を打ったり、それを三成から秀吉にチクられて言い訳するために無断帰国して秀吉の逆鱗に触れたり。大変な切れ者で人格者でもあり、周囲から絶大な信頼を受けていたと言われる官兵衛にしては、どうも不甲斐ない。ドラマとかでは示されませんが、おそらくその頃はもう、病気に蝕まれていたのだと思います。当時非常にポピュラーな疾病であった梅毒であった可能性が強いようです。 

梅毒という病気は、当時根本的な治療方法がありませんでした。ゆっくりと浸潤して最後は脳を冒すこともある。写真の像(右側)は頭巾をかぶっており、この像はよく知られている肖像画に似せて作られたものだと思われますが、この頭巾も梅毒によってできた頭の腫れ物を隠すためだったと言われています。

 

写真の幟旗に「中津で天下の夢を見た」と書かれています。天下分け目の関ヶ原合戦のとき、官兵衛は関ヶ原には赴かず、地元中津で雑兵をかき集めて空城だらけとなった九州を席巻します。もし関ヶ原が長引いたなら、東軍でも西軍でもない第3勢力を九州に確立し、天下をうかがっていたとも言われています。皮肉にも息子長政の活躍もあって関ヶ原の戦いはわずか半日で終わったため、官兵衛の夢は夢のままとなったわけですが、どうもおかしい。

彼の一番の凄みは、その場その場での自身の役どころを完璧に勤め上げ、あえて千両役者の位置に踏み込まない、欲を出さないことで自らの立ち位置をさらに盤石にするところにあると感じているのですが、このときの官兵衛は派手に動きすぎている。もしかしたら、長年患っていた梅毒がこの頃は脳まで侵攻し、自分でも行動を制御できない状態になっていたのではないか。

中津で見た夢とは、官兵衛がというよりは、彼の脳に入り込んだ梅毒が見せた夢だったのかもしれません。