拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

とよのくに紀行1~大分市戸次

大分赴任も3年目に入りましたので、そろそろ「総括」を始めたいと思います。(そんなこと言っておいて、まだまだ長く居座る可能性もありますが…。)

 

大分に引っ越してきて、前任地の名古屋から自分の車が届いたその日に向かったのが、「戸次川(へつぎがわ)古戦場」でした。

向かったというより、適当に地図も見ずに車を走らせたら、たまたまそこに着いた。転勤して数日後のことであり、大分の土地カンは当時全くなかったので、古戦場をうろつく亡霊どもが、暇つぶしに私の車を引き込んだのだと思います。私もじっさい暇でしたが。

 

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たぶん、この辺で戦ったはず…

 

「戸次川古戦場」が舞台となった戸次川合戦とは、戦国時代最晩期に行なわれた豊臣政権による九州征伐の最初の戦いとなったもので、豊臣秀吉に征服されてまもない四国勢を主力とした豊臣軍と、この時点で九州をほぼ統一していた薩摩の島津軍との戦いでした。

天下統一が秒読みに入っていた豊臣軍は、基本的には圧倒的に優勢でありましたが、この合戦直前の時点では、まだ軍勢が整っておらず、味方の集結を待っている状態でありました。

が、このときの豊臣軍の総大将がちょっとおバカ。周囲が止めるのも聞かずに、島津に早々と突っかけます。ここ戸次川で両軍は激突し、おバカ率いる豊臣軍は、九州平定の緒戦で島津に叩きのめされる結果となりました。

 

このときの豊臣軍の主力に、長宗我部元親と、その嫡男信親がいました。

元親は、「土佐の出来人」とも称された英傑で、一代で四国を統一した戦国大名でした。しかしながら、豊臣秀吉が政権を確立後、その圧倒的な軍事力を背景に四国に圧力をかけてきます。一時は敢然と立ち向かった元親でしたが、衆寡敵せずその軍門に降り、四国全土から土佐一国に押し込められてしまいました。そして、そのような敗軍の将の定めとして、新たな攻略地の危険な先陣を命ぜられ、この九州の地に立っていたのです。

 

ただ、元親には大きな希望がありました。

元親の嫡男信親は、若いながらその父に劣らぬ才覚を持った俊才との評判を持ち、家臣や領民からその将来を大いに嘱望されていました。文武に秀で、身長180センチ以上と当時としては極めて大柄でたくましくありながらも、色白柔和(=イケメン)。礼儀正しくて身分の上下問わず誰からも慕われるという、まさに非の打ち所がなかった当時22才の若武者でした。

父元親にとって自慢の息子であり、たとえ土佐一国になってしまっても、長宗我部家の未来は安泰だと思っていたことでしょう。

 

ところが先述の通り、豊臣軍の「おバカ」が島津に突っかけていき、しかも「おバカ」の軍勢はあっさりと負けて、戦場からさっさと逃げ出してしまいます。取り残された長宗我部親子はそれでも奮戦し、父の元親は何とか虎口を脱しましたが、子の信親はむなしく九州に命を散らすこととなりました。

名将の誉れ高かった元親は、信親の死を境に狂人と化し、些細なことから一族・家臣を次々に虐殺するなどして長宗我部家は大混乱に陥り、まもなく滅亡しました。

 

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近くに長宗我部信親のお墓がありました

 

長宗我部氏を失った土佐は、江戸時代を通じて山内氏の統治下に入りましたが、そのことが土佐の地元民にとって「よそ者」である山内氏系の家臣(上士)と長宗我部系の家臣(下士)との対立を激しくし、それは幕末まで続いていきます。

その流れが幕末の土佐の空気、さらには坂本龍馬を生んだことに繋がっていくのかもしれませんが、もしかすると龍馬という現代の日本人が大好きなこの一人の英雄を生み出すために、戦国時代の22才の有望な若者の死と、その後250年間の土佐の人々の苦しみが運命として設定されていたのかもしれず、そのように考えると、改めて歴史というものの壮大さと残酷さに身震いする感があります。

 

大分県内には、この古戦場からはるか離れた佐伯市に長宗我部神社があります。

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佐伯市にある長宗我部神社

神社といっても小さな祠にすぎず、海岸の集落の片隅にひっそりとあるだけで、近くに由緒書きのようなものも見当たりませんでした。

長宗我部家は大名として滅亡した際に、わずかに残った子孫も名字を変えて歴史の表舞台から姿を消すのですが、この長宗我部神社のある集落には「土佐路」という姓の方が何件かいらして、もしかしたら長宗我部家滅亡の際に、一族や家臣がはるばる土佐から海を越えてこの地に住み着いたのかもしれません。

 

「われわれは、土佐の者である」。

「土佐路」という姓に、すべてを失った亡命者の嘆きと誇りが込められているような気がして、この小さな祠を守り伝えてきた人々の心が感じられるような気がして、少し切なくなってきます。

神社のすぐ正面は、海。その向こうにあるはずの四国は、ここからは見ることができませんでした。