拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

男の花(2)

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高橋紹運の居城であった岩屋城は、古代史で有名な福岡県の旧大宰府政庁の裏山といえる場所に築かれていました。

実際に登ってみたら、高さはそれほどでもありませんが、平地からいきなり急峻な山となっていますので、「まあ普通、城作るよな」といった、そういう立地であります。

 

戦国末期、九州は三つの大きな勢力に収斂されつつありました。後世、俗に九州三国志とも称されます。

東には今の大分市を根拠とし、最盛期8カ国にまたがる広大な領土を築いた名門大友家。西は佐賀を中心として、廃滅寸前の状態から一代で成り上がってきた龍造寺家。南は室町期からの数代にわたる領内の内紛状態をようやく収拾し、いよいよ餓狼のごとく眼を北に向け始めた薩摩の島津家。岩屋城は、その「西」と「南」をせき止める要衝の地にありました。

 

九州の三国鼎立は、最も強大であった大友家から崩壊していきます。大友家の斜陽は、大友家と島津家の決戦となった「耳川の戦い」で大友家が惨敗したことが直接の要因とされていますが、それ以前から、この戦いの結果が必然といえるような大友家内部の崩壊が相当進んでいたものと思われます。

今の大分県内をまわると、非常に優美な古い仏像が数多く残されていることにびっくりします。質量ともにも九州ではずば抜けている印象がありますが、それでも戦国期に相当数が破壊されているようです。一つには「耳川」の後、豊後になだれ込んできた薩摩の無教養な蛮族ども(私ももともと薩摩人ですが、いま住んでいる大分の目線から当時の薩摩を見ると、強くこのように感じます。)が何もかも滅茶苦茶に破壊していったということがあげられますが、それ以前の時期に、すでに大友宗麟主導で破壊されたものも非常に多い。キリスト教に極度にかぶれた宗麟が行なった仏教弾圧によるものです。

 

当時の豊後は、おそらく九州でトップクラスの文化・教養レベルを持っていたと私は感じているのですが、それは長年に渡るこの地での仏教文化の蓄積と、人々の仏教への大きな崇敬が根幹にあったからと思われます。出家して「宗麟」と名乗るくらいですから、そこは分かっていたはずなのですが、結局彼はキリスト教に改宗し、のみならず徹底的な寺社や仏像の破壊に乗り出した。

当時の人々にとって、宗教や信仰は自分の存在意義そのもといえるものであり、それは一向宗に最後まで手を焼いた織田信長の例をみても分かるのですが、宗麟が行なった弾圧が、代々仏教に帰依してきた宗麟の家臣や広く領民に至るまで、その心中に大きな禍根を残したであろうことは想像に難くありません。みんなの心が宗麟から、大友家から離れてしまった。そのようなときに、耳川で島津に大敗した。巨木の内側はすでにガタガタになっていて、負けるべくして負け、これを契機に大友家を裏切る人間が続出します。

そしてついに、島津軍が燎原の火の如き勢いで北に攻め上がってきました。その数50000(さすがにちょっと盛り過ぎてると思いますが…)。ボロボロの大友勢でしたが、大友方の高橋紹運率いる岩屋城は敢然と島津に立ちふさがります。しかし、そこにはわずか700名余りの兵士しかいませんでした。

 

大友家本体がこれほど崩れきっている状況で、目の前に現れた50000人の敵兵。手も足もガタガタと震えます。700人が50000人に抗っても、勝つ見込みはまったく無い。50000人を追い払ってくれる援軍が来る可能性もない。普通は降伏しますよね。

こんな絶望的な状況ですから、仮に城主が「死守するぞ~!」と声を枯らしても、城内から必ずといってよいほど裏切り者が出てくる。中から火の手が上がり、門の鍵を開ける輩が出てきて、あっさりと陥落するのがこのような場合の普通の攻城戦のパターンです。

 

圧倒的に不利である敵に対して、島津側は当然のことながら降伏勧告を行ないましたが、城主高橋紹運は一蹴し、何ら迷うことなく戦いの道を選択します。紹運にとって、岩屋城の兵士にとって、死が必然の絶望的な戦いが始まりました。しかしながら、それは圧倒的に有利なはずの攻め手の島津勢にとっても、壮絶な、辛酸を舐める非常に厳しい戦いになりました。(つづく)