拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

歴史を旅する 中津(4)

豊臣政権下において、黒田官兵衛は長年の功績を認められて豊前12万石を与えられ、中津に城を築きます。しかしながら、平和的にその統治を開始することはできませんでした。それ以前、数百年前から豊前の地に割拠していた宇都宮氏が、新たな領主となった官兵衛、そしてその息子長政の前に敢然と立ちはだかります。新旧領主の壮絶なる対決が始まりました。

 

今の福岡県行橋市の西南に位置する城井(きい)谷を根拠としていた旧領主の宇都宮鎮房は、官兵衛の豊前赴任に伴い、海を隔てた四国伊予(愛媛県)への転封を天下人秀吉から命じられます。が、先祖代々の土地を離れることに納得のいかない鎮房は猛然と豊臣政権に反旗を翻し、これに豊前に根を張る各地の土豪たちが次々に呼応したことで、黒田軍はさながら日中戦争時の日本軍、ベトナム戦争におけるアメリカ軍のごときドロ沼の戦いに向かわざるを得なくなりました。

 

宇都宮氏は元々北関東を本拠とする名族で、鎌倉時代に庶流が豊前に流れてきて根を張った武家の一族。戦国期の日本のあちらこちらに存在した在地領主の一つです。彼らのような立場の家は、例えば毛利氏のように時代に乗じて大きな勢力になった家もありましたが、多くは生き残るためにあっちについたり、こっちについたり、しくじって滅ぼされたりしていました。

宇都宮氏のような在地領主は、一般に国人とか国衆という風に呼ばれますが、私自身の中で、このように地元に根を張ってきた人々と、その上に乗っかってきた全国政権の黒田氏のような人々との関係性が今ひとつ理解できていません。無理矢理整理してみると、例えばこんな感じなのでしょうか。

 

豊前の地で細々と、でも長年に渡ってそれなりのチェーン展開を行なってきた「宇都宮スーパー」がある。そこへ千葉に本店があるピンク色の看板の某大手スーパーが攻勢をかけてきたため、株の51%を差し出して、宇都宮スーパーごとピンクスーパーに身売りしたわけですよ。自身と従業員の雇用を守るために。ところがしばらくして本店から黒田というエリートが赴任してきて、「豊前はオレがやるから、旧宇都宮スーパーの従業員は社長以下パートに至るまで全員愛媛に転勤してもらう!」という辞令が出された。

旧宇都宮スーパーのメンバーはキレた。「何がイ○ンだ!(ちょっと!もう少し小さな声で!)こっちは小なりといえど創業数百年を誇る老舗だ!最近調子に乗ってるからって、なんであんなぽっと出の連中の言うことを聞かなくちゃならねえんだ!」

・・・こんな感じで、旧宇都宮スーパーの人々は反乱に立ち上がったのかもしれません。ピンクスーパーには甚だ申し訳ないのですが、勝手にこんなストーリーを作って自分の中で整理しています。(なんかB級映画が出来そうな気もしますが。)

 

それはそうと、戦国時代を飛び抜けた頭脳でクールに駆け抜け、成功していったイメージのある官兵衛が、その生涯でもしかしたら最も苦い時間を味わったのが、この宇都宮一族の反乱鎮圧のときだったかもしれません。長年の根拠地であり、この土地を隅々まで知り尽くしている宇都宮氏は、黒田軍の侵攻に対して、拠点の城井谷などで徹底的なゲリラ戦を展開。山と谷が深く入り組んだ土地にダニのように潜りこみ、黒田官兵衛、長政の親子は無数に存在する山塊の一つ一つに分け入ってそれぞれに大きな損害を強いられながら、その一つ一つを潰していかなくてはなりませんでした。

それでも何とか乱は鎮圧され、宇都宮鎮房はしぶしぶ講和に応じます。しかし手を焼きに焼いた黒田親子はもうこりごりだったのか、講和のために中津城に出てきた鎮房を城内で惨殺するという、いかに戦国時代とはいえ極めて残忍な非人道的手段に打って出ます。お城近くの合元寺に集められていた宇都宮一族郎党もすべて誅殺。まことに後味の悪い、クールなイメージだった黒田家に凄惨な赤い汚点を残す結果となりました。それだけ宇都宮氏に手こずった、もうそうするしかなかったということなのでしょう。

 

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現在の合元寺は赤壁寺の別称があるように、壁が真っ赤に塗られています。元々は白壁だったそうですが、合元寺で宇都宮郎党が誅殺された際、壁は血で真っ赤に染められ、酸鼻を極める光景になりました。無念の思いは壁に染みつき、その後何度白く塗り替えても下から赤い血の色が浮き出してくるため、赤色に変えたという伝承が残されています。この写真は昼間だからよいですが、夜はだいぶ怖いですねえ・・・。ちょっと近寄れない気がします。

 

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当然というか、その後の中津城には宇都宮鎮房の亡霊が夜な夜な出没したといいます。正々堂々と対決して討ったのではなくだまし殺したわけですから、黒田家としても非常にバツが悪く、後々まで気味の悪い思いをし続けたことでしょう。事件後、お城の一等地といえる場所に城井(きい)神社が創られ、この神社は今もその血に、いや地にあります。

江戸時代になって天下泰平の世の中になりましたが、黒田宗家は跡継ぎが次々に夭折してついには断絶。その後に続いた歴代藩主にも急死が相次ぐなど、江戸期を通して後継者問題に悩まされ続けた黒田家は、世間からこの事件の報いだ、祟りだと後ろ指をさされ続ける羽目になりました。

 

大河ドラマに映っていない舞台裏で、黒田官兵衛はこんな卑劣なこともやっていた。こういうことを知り、その何ごとかを深く感じることが、実際にその土地を旅する醍醐味だと思いますし、宇都宮の無念に報いるためにも、この神社はニセモノの中津城天守閣以上に訪れてあげたい、その思いを感じてあげたい場所だと思います。

 

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気分を変えて、旅に戻ります。

中津は寺町界隈がよく残っていて、とても風情があります。残酷な歴史がある反面、寺の住職との宗論(?)に負けて仏門に入ったカッパの墓があったりして、ほのぼのとする所もある。また昔のお城の惣構え跡が町の中に残っていたりもして、こんな小さな町に、よくもこんなに色々と残っていたものだと感心するところがあります。

 

小さな中津がくぐり抜けてきた大きな時間を知ると、何気ない風景や町中を歩く人々にまた格別の思いを感じます。

歴史を旅する 中津(3)

中津歴史旅はウンと遡り、時は戦国、軍師官兵衛の時代。

今の中津の土台を作ったのは、なんといっても黒田官兵衛でしょう。中津には「上如水」とか「姫路町」とかいった地名が今でも残っており、大分居住歴の浅い私は、そのような地名に接するたびに一人ワクワクしています。しょうもないな。

 

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中津城には立派な天守閣があります。格好いい!

戦国時代にも江戸時代にもなかった中津城天守が、なぜか令和の現代には屹立しているという不思議さ。この天守は「再建」ではなく、「創建」であります。昭和39年建設ということで、当時の状況からはこれでよかったのかもしれませんが、今こんなニセモノを作ったら歴史研究者からもマニアからも猛反発を喰らうでしょうな。まあそれだけ「歴史」が市民権を得てきた、まともな感覚が普通の人達に浸透してきたということにはなるかと思います。大げさではなく、歴史を正確に知ろうとする人々の多寡は、その国の民度を図る正確な物差しになると私は思います。

 

ナンクセをつけるのはここまでにして、この城の見所はやっぱりY字石垣でしょう。

 

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右側が黒田官兵衛築城時のもの。左側がその後に城主となった細川忠興のものと言われています。左側下の屋根はなぜかアヒル小屋でありまして、アヒルが1羽のんびり寛いでいました。

現在の大阪城の下に豊臣期の別の大阪城が隠れているように、普通は改修時に城は大きく形を変更して、従前のものが分からなくなることが多いのですが、中津城は両者がきれいに合体している。おかげで時代や築城者によって、同じ石垣といえどもだいぶ様相が異なるということが私のような素人にも理解できます。

そして、この合体石垣の上に昭和建築技術の粋を集めた天守閣が乗っかっているわけであり、さらにはアヒルも加わって完璧な四重奏を奏でています。グワッ、グワッ。(またナンクセが・・・。)

 

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初代城主は官兵衛。何年か前の大河ドラマ以来、それまでの地味な脇役のイメージからすっかり脱却した感があります。

黒田官兵衛孝高(よしたか)。言わずと知れた豊臣秀吉の片腕、名軍師。秀吉に天下を取らせた中国大返しをはじめ、その武功は数知れず。その一方、秀吉が死ぬ前後以降の官兵衛は、だいぶ精彩を欠く印象があります。朝鮮出兵時に石田三成を長々と待たせて碁を打ったり、それを三成から秀吉にチクられて言い訳するために無断帰国して秀吉の逆鱗に触れたり。大変な切れ者で人格者でもあり、周囲から絶大な信頼を受けていたと言われる官兵衛にしては、どうも不甲斐ない。ドラマとかでは示されませんが、おそらくその頃はもう、病気に蝕まれていたのだと思います。当時非常にポピュラーな疾病であった梅毒であった可能性が強いようです。 

梅毒という病気は、当時根本的な治療方法がありませんでした。ゆっくりと浸潤して最後は脳を冒すこともある。写真の像(右側)は頭巾をかぶっており、この像はよく知られている肖像画に似せて作られたものだと思われますが、この頭巾も梅毒によってできた頭の腫れ物を隠すためだったと言われています。

 

写真の幟旗に「中津で天下の夢を見た」と書かれています。天下分け目の関ヶ原合戦のとき、官兵衛は関ヶ原には赴かず、地元中津で雑兵をかき集めて空城だらけとなった九州を席巻します。もし関ヶ原が長引いたなら、東軍でも西軍でもない第3勢力を九州に確立し、天下をうかがっていたとも言われています。皮肉にも息子長政の活躍もあって関ヶ原の戦いはわずか半日で終わったため、官兵衛の夢は夢のままとなったわけですが、どうもおかしい。

彼の一番の凄みは、その場その場での自身の役どころを完璧に勤め上げ、あえて千両役者の位置に踏み込まない、欲を出さないことで自らの立ち位置をさらに盤石にするところにあると感じているのですが、このときの官兵衛は派手に動きすぎている。もしかしたら、長年患っていた梅毒がこの頃は脳まで侵攻し、自分でも行動を制御できない状態になっていたのではないか。

中津で見た夢とは、官兵衛がというよりは、彼の脳に入り込んだ梅毒が見せた夢だったのかもしれません。

歴史を旅する 中津(2)

福沢諭吉旧居とそこに隣接する資料館が中津における歴史観光のハイライトの一つですが、そのすぐ近くにあるのが増田宗太郎旧宅跡です。

 

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増田宗太郎は福沢諭吉の又いとこにあたり(福沢が15才年上)、家もすぐ近所だったので幼少時は親しく付き合っていたはずですが、長じてから、なぜか福沢を暗殺しようと企てた人物。

国学に傾倒し尊皇攘夷を唱えていたということですから、今で言うと増田は「右側」の人。欧米渡航歴もあり、積極的に海外の文物を学ぶべきとの考えを展開してた福沢は当時としてはリベラルの位置づけでしょうから、二人の思想は合わなかったのでしょう。それにしても、これほど近しい関係の人物の命を狙わなくてもよいのに、とは思います。これは現代人の勝手な感覚なのでしょうか。

 

増田は、しかしながら暗殺失敗の後、なぜか福沢の主催する慶應義塾に入学。その後なぜか大きく思想の舵を切って自由民権運動に目覚め、地元中津において新聞発行を行なうなどの活動を行ないました。

やがて西南戦争が勃発したときに中津隊を組織し、なぜかある意味自由民権とは対局の思想位置にある西郷軍に身を投じます。そして戦況振るわず追い詰められた西郷軍が宮崎で解散命令を出し、薩摩人以外の多くがそれぞれの故郷に引いていった中で、なぜか増田率いる中津隊は鹿児島に最後までついて行き、城山の戦闘で滅亡のときを迎えました。増田の享年29。お墓は今も鹿児島にあります。

 

私にとっての増田宗太郎とは、その人生が「なぜか」の連続の人で、よくは分からない。ただ、この人の遺した言葉で、後世に伝えられる有名なものがあります。

「1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある」

西南戦争時に、中津という薩摩からみると他国人であるにもかかわらず、不利な戦況で最後まで西郷に従った理由として、増田が西郷の人となりを語ったと言われる言葉です。西郷の人徳を偲ばせるものとして知られていますが、実は増田という不思議な人物をとらえるカギが、ここにあるのではないか?

 

私の勝手な想像で、増田本人には大変失礼かもしれませんが、彼には福沢のような確固たる理想はなかったような気がします。「このような国にしたい」「このような人々を作っていきたい」。着地点は結局なかったのではないか。ただ感激屋で、その場そのときに接した物事や人物に熱く共感し、もしかしたら非常なお人好しで、引かなくてもよい貧乏くじを自ら進んで引いていったのではないか。

 

国学に接すれば感激して異端の徒である福沢を殺そうとし、その福沢に接すれば共鳴して慶應義塾で学び、西郷に接すれば心酔して自ら死地に向かう。彼の人生はその連続だったのかもしれません。この気性を真に有用とする何ごとかが見つかれば、増田は今知られているよりも遙かに後生に名を残す存在であったのかもしれず、素晴らしい能力を発揮しきれない生き方をしたと個人的には感じるところから、そういう意味では大変残念な気もします。まあそれも人生。仕方がない。

 

「これで良かったんだよね」

と問いかけたら、

「こうするしか、なかったんだよ」

と静かに、でもまんざらでもない表情で答える増田の姿が浮かんでくるような気がします。

歴史を旅する 中津(1)

家でじっとしているのが、段々我慢できなくなってきましたね。

「県外に出なければ、いいんだろ?」

と自分で勝手に言い訳して、大分県内ギリギリの中津をブラブラしてきました。

大分には中津をはじめ、たくさんの城下町があって、歴史好きにとっては歩いているだけで飽きのこない面白さがあります。

 

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中津の有名人は、なんと言っても福沢諭吉大先生。福沢先生は、中津の誇りであり、大分の誇りであり、日本の誇りでもあります。 

旅人がJR中津駅を出ますと、一番目立つところで先生が出迎えてくれます。いや、私なんぞを出迎えるはずがない。屹立して、今なおこの日本をじっと見据えておられるのだと思います。

いやしかし、銅像の方角からいえば、日本の西の果てに近い中津からさらに西側を見ておられるので、お尻は東。福沢西向きゃ、尻は東。日本の大部分のエリアに尻を向けている格好なので、見ておられるのは九州か?いやいや、そんなに小さいはずがない。九州の西、遠く東シナ海を越えて広大な中国大陸、そして世界を見据えておられることでしょう。

 

福沢諭吉は、中津生まれではありません。中津藩の蔵屋敷があった大坂生まれなんですね。お父さんは百助という方で、福沢家は一応は武士の家柄でしたが、だいぶ下っ端でかなり貧乏。しかも諭吉が物心つくまえに百助さんが亡くなってしまい、母子6人(!)で中津に戻ってきます。お母さんのご苦労、察するに余ります。

 

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朝ドラは見てみたいですね。これは運動を頑張ってほしい。賑やかなドラマになるでしょう。

諭吉少年、後年お札の肖像になるなんて想像がつかないくらい、だいぶ「不良」ですしね。お母さんも手こずったと思います。神社のお守りを踏みまくって本当に罰が当たるのか試してみるなんて、今でもこんな子供がいたら少し変だと言われそうですが、神仏が絶対的な意味を持っていた当時にこんなことを平気でやるのですから。『盗んだバイクで走り出し、夜の校舎窓ガラス壊してまわる』(某ミュージシャン名曲)並みの、いや当時としてはそれを上回るくらいの過激なことをやっています。

 

諭吉が若い時間を過ごした中津は、ガチガチの身分制社会や封建的思想が跋扈する保守的な土地で、下っ端侍の彼にとっては居心地は良くなかったようです。中津時代の諭吉は、がんじがらめの校則、いや当時の社会そのものに反発し、ニッポンの窓ガラスを壊してまわりたいような気持ちでいたのかもしれません。そういう意味では、現在の中津市からしてみると多少複雑な感じがしそうですが。

 

諭吉が30代のときに時代は江戸から明治に切り替わり、古い考えがどんどん否定されて、新たな社会が形作られていきます。そういったなか、それまでの封建的身分秩序の社会は少しずつ消滅していったわけですが、代わりに学歴社会が登場し、今となっては諭吉先生が設立した慶應大学がその新たな身分制のトップに君臨するようになりました。

身分や家柄の時代よりも、個人単位ではある意味はるかに厳しく、残酷になってしまった現代社会。先生はどのように感じておられるのか。駅前の銅像は、今日もただ腕組みをして屹立するのみです。

この違和感を納得するには?

コロナ禍で休業や活動自粛を余儀なくされている方のご心中、察するに余りあります。本当に早く元に戻ってほしい。
その一方で「休業要請するなら国が補償しろ!」という声には、個人的には違和感を拭えません。経済的に困窮している状況の方にとって、非常に酷な言い方ではありますが。

 

「補償」といっても、結局のところそれは国民のお金です。多くの人が汗を流し、ときには涙をにじませ、場合によっては命を懸けて稼いだお金です。簡単に出せるものではない。

 

外に飲みに出かけない人が、なぜ自分の財布を痛めて飲み屋の補償をしなければならないのか?パチンコ屋の休業しかり、役者さんの活動自粛しかり。そういう人たちが厳しい状況だからといって、日常自分に関わりや興味がないものにまで引っくるめてお金をジャンジャン出せるほど、一般国民は財布にも心にも余裕はありません。せめて納得できる理由がほしい。

 

そこでこういう方々は、国への補償を言う前に、まずは自分の親とか親戚とかに今の窮状を訴えてほしいのです。実際に援助が得られるかどうかは別として、その過程を経ることが、結局は補償に対する国民の同意を得ることに繋がることになると思われるからです。

 

「私の反対を押し切って、お前が選んだ道だろう。自分で何とかしなさい」
こういう頑固親父を何とか説得しなければならない。
「散々好きなことやってきたくせに、困ったときだけ泣きつくのかい?甘ったれるんじゃないよ!」
こういう嫌味な親戚のおばちゃんに頭を下げなければならない。

 

それでも理解が得られないのであれば、諦めて窮屈なサラリーマンでも日雇いのアルバイトでもして、また一から何とか稼いでいくしかない。生きていかなければならないのだから。

 

そうは言っても、私自身も支えたいと思う人達がいます。支えたい人達が支えたいと思う人々を支えていくのは、自由だ。ふるさと納税のような仕組みが作れないものか。

 

空っぽの財布を揺すられて補償をせびられるより、「こういう仕組みを考えた。実現してくれ」といった訴えの方が国も動くと思うのですが、何かないものでしょうか。

真実の不便さ

私は悲しいかな、味覚音痴とまではいかずとも舌は肥えておらず、まあ大体のものをそれなりに美味しいと感じてしまいます。

 

コロナ自粛の前頃の話ですが、職場の同僚と食事に行ったときのことです。私が自身の舌の貧弱さをぼやいたところ、その同僚は「肥えていても、不便なものです」と言う。この人にとってみれば、世の多くのものは自分の味覚を満たすことに乏しく、だから「不便で困る」そうだ。自慢とか、そういう感じで言っているのではなく、本当にしょげた感じで、少し残念そうに話すところに実感がこもっていました。

 

ごく普通の勤め人であり、食べ盛りの男の子二人を養育していかなければならない彼が、自らの美味の追求のために高級食材を用いた何チャラやら、腕の立つ料理人のこさえた何タラを日常食すわけにはいかない。普通のスーパーや飲み屋さんで、多くは満足できない自身の舌をごく稀に満たしてくれるものを何とか見つけていくしかないわけで、このように考えると、なるほど鋭敏すぎる舌を持つということは不便なことなのでしょう。

 

「見つけた美味しいものをSNSとかで発信すれば、せめてその不便さの意味があるのに」と私が言ったところ、「自分が満足できればそれでいいのです」との答え。

 

真実を見極めることができる人が真実を言うとは限らないし、見極められない人間に限って恥の分別もつかずに、自身の見識を声高に吹聴するかもしれない。
結局のところ、例え才に乏しくとも自らをたくましくして、自分なりの見極めを磨いていくしかないのかもしれませんね。食に限った話ではありませんが。

コロナ禍においても、桜は満開。私の住む大分では、先週も満開だった桜が、1週間経った今でも盛大に花を咲かせています。花冷えと好天が続いたからでしょうか。

 

変わらぬ桜と対比して、変わったのは人。桜の下の宴が姿を消し、この春は花びらが静かに風に舞っているのみです。まあ花見の騒ぎが苦手な自分としては、今の方が好ましい。

 

少し昔のことになりますが、花見の名所といわれる場所にふらりと立ち寄ったときのこと。晴天の日曜日で、あちらこちらで人が集まり賑やかななか、一本の桜の木の下に一人の白髪の老人がぽつんと座っているのが目にとまりました。
手には一缶のビール。時々それに口を当てては、後はただ桜を見ていました。

 

ふっと思いました。桜にもし人格があるとすれば、きっとこのような感じかもしれない。

「今年も咲かせることができたか」

一年の労苦を一本のビールに収める。喧噪をよそに、舞い落ちる花びらをただ眺めながら。

 

私の見たものは、本当に桜そのものだったのかもしれないし、またはその老人の人生そのものだったのかもしれません。
時間が経っても記憶から消えない、過ぎし春の光景です。