拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

四国本格的にぶらぶら(番外編)

高知で、今さらながらに戸次川合戦の様々な状況を仕入れてきたので、大分に戻ってからブラついてきました。

 

 

奮戦むなしく討ち取られた長宗我部信親終焉の地は、大掛かりな石碑が最近建てられていたようです。

 

 

 

子孫の方や大分地元有志の方が中心になって、建立されたようです。

ちなみに、長宗我部氏は大坂の陣で当主盛親が斬首された後、姓を変え、江戸期を通じて「長宗我部」を名乗ることはできなかったみたいです。明治になってようやく復姓できました。

近くには、長宗我部信親の墓や、付き従った十河一族の慰霊碑があります。

 

そもそも戸次川で合戦が行われる発端となったのが、川岸近くの山べりにあった鶴賀城をめぐる攻防でした。

 

  

 

豊薩合戦(大友氏と島津氏の戦い)では、その時点での大友氏の衰弱ぶりもあって、島津氏が一方的に勝ち進んでいった印象がありますが、局地戦では大友軍は頑張っています。

ここ鶴賀城でも、城主・利光宗魚の奮戦により島津勢は足踏みを余儀なくされ、島津氏の九州統一を結果的に阻んだ要因の一つになったものと思われます。

 

話がどんどん脱線しそうなので、長宗我部氏の運命を狂わせた呪われた川(地元の方すみません)の写真を最後に掲載して、このシリーズお開きにします。