拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

岩隈投手、お疲れさまでした

巨人の岩隈投手が引退とのこと。

 

近鉄時代、20才くらいのときに1軍に上がってきて、いきなりの快投連発。

私は当時、大の近鉄ファンでしたが、ドラフト下位指名で騒がれもしなかった彼をよく知らず、「誰だこれは?」と嬉しく舞い上がったことを覚えています。その後の活躍は、日本中の野球ファンのよく知るところ。

そんな岩隈投手も、39才になりましたか。長い間、本当にお疲れ様でした。

 

大好きだった近鉄バファローズは、解散してもう何年になるのか。

10月19日という、近鉄ファンにとって決して忘れることができないあの日から、もう何年経つのか。

2020年の同じ日に、近鉄最後のエースが現役に別れを告げるというのも、何か感慨深いものがあります。

 

岩隈投手、あなたは近鉄ファンにとって意地であり、最後の誇りでもありました。

本当にありがとう。

季節が移る

自宅の近くにちょっとした丘があり、小さいながらも季節の移り変わりを楽しむことができるため、週末の都度ブラブラするのが楽しみになっています。春は桜、梅雨どきは紫陽花。夏になると蝉の声がけたたましい。

 

最近は、少し寂しい感じがします。夏まっ盛りの頃から頑張っていたツクツクボウシは、週末ごとに声が小さくなって、今日はもうほとんど聞くことができませんでした。聞こえるのは、足下から流れる秋虫の声ばかり。季節が移るというのは、命が移るということなのだと改めて感じます。

 

人間以外の生き物は、すべからく生きるべき時を真っすぐに生き、季節が移ろって自己の時が満ちた時には、愚痴一つ言わずに静かに死んでいく。

生きることの崇高さを、どの生命体よりも理解しているはずの人間は、ゆえに死を恐れ、ゆえに宗教や哲学を構築して生に理屈を与え、その理屈のために生きるべき時をむやみに浪費し、他者と同じであるはずの自分の運命を呪いながら死んでいく。

人間以外の魂の方に、はるかな崇高さを感じるのは、神の仕掛けた壮大な皮肉なのでしょうか。

 

丘から降りると、暗くて少し明るい茜色の秋の空が拡がっていました。今日も日が暮れていく。冷たくなった風の声が聞こえる。そして少しだけ、また季節が移る。

 

人間は時が流れていくことを知っている。それが一個の生命体としては哀しいことであることも知っている。それでも生き続けていくところに、人間の魂の崇高さがある。

腹が減った。お風呂に入って、ビールでも飲みましょう。

四国ちょっとだけぶらぶら(1)

先日の4連休、四国をぶらぶら。

…のはずが、コロナ禍だから大丈夫と油断をしていたら、GoToトラベルの影響からか宿が1泊しか取れなかったので、四国の切れっ端をちょっとかすめただけの旅になりました。

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まあ、何はともあれ九州を後にします。さようなら。

 

大分の海の向こうは、すぐ四国。大分と四国の間には、4本くらいフェリーの航路があるようです。

実際、大分市内に愛媛の銀行の支店があったりするので、それなりの規模で大分と四国の経済的な結びつきはあるのだと思います。

車を運ぶのに大分から一番便利だと思ったのが、今回利用した大分・佐賀関から愛媛・三崎までの国道九四フェリー。結構な夜中まで大体1時間に1本、70分で九州・四国を結んでいます。

 

もう四国最西端の佐田岬が見えてきました。

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余談ですが、私が小学生の頃、地元鹿児島の佐多岬のニセモノめいたものとして、この四国の佐田岬は非常に印象に残り、かつ、蔑んでいました。名前も「サタミサキ」「サダミサキ」と似ていますし、一方は日本本土最南端、もう一方は四国最西端と似たような境遇にある。勝手に「本土最南端の方が偉いんじゃ」と、意味もなく四国最西端の佐田岬を下に見ていました。本当に意味もない。

ただ、地図に興味を持ち始めた頃で、日本や世界の地図を見て色々想像することが大好きだったこの頃、この奇妙にひょろ長い半島と突端の岬には、実は大いなる興味と憧れを抱いていました。「半島」とか「湾」とか、この頃なぜか大好きで、半島の突端にある岬とか、もう超ノスタルジー。人生10年ちょっとにして、すでに爺くさい少年。この少年の時の(憧れの)佐田岬がいま目の前にある。降りたら向かおうと思います。

 

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佐田岬半島は東西に長く、南北は狭くて海が目の前といった地形ですので、風力発電が盛んです。プロペラがいつもくるくる回っている。ただ風力発電だけならよかったのですが、このひょろ長い半島の付け根近くに伊方原発ができたため、有事の際にはこの半島の人々は海に逃げるしかないといった状況にあります。風光明媚な半島に、何かケチがついた感じがしないでもありません。

 

石油・石炭といった火力や原子力のエネルギーの基となる地球上の資源は、いずれは枯渇するでしょう。そうなったときに、この風力のプロペラだけでは電気は賄えないのではないか。そうなったら四国電力の社員が自転車こぎで発電するしかないなあ、とか思いました。

発電1課と発電2課。社員はラグビーや競輪選手並みの屈強な太ももを持った体育会系の男たち。1時間交替で、汗を飛び散らせながら自転車こぎで発電。きっと1課と2課は実績を競わされていて、「先月は2課に水をあけられたぞ!どうした!」とか課長からハッパをかけられる。ああ組織ってくだらない…。 

とか、本当にくだらない物思いにふけっていたら、あっさり三崎港に着いてしまいました。

 

で、せっかく四国に着いたのに、また九州側に向かって車を走らせる。西へ、西へ。佐田岬を目指して、ひょろ長い佐田岬半島をひたすら西へ。

後から知りましたが、三崎港から東側の四国本土側へは道幅も広く快適なドライブが楽しめますが、西側の佐田岬までのルートはかなり道幅も狭く曲がりくねって走りにくい。しかも、点在する小さな集落に差し掛かると、路駐の嵐。ただでさえ道狭いのに…。

にもかかわらず、地元愛媛ナンバーの車どもは、すぐに我がカーの後ろにへばりつく。譲っても譲ってもペタペタと。愛媛というと、ポンジュースとか松山の駘蕩としたイメージとか、けっこうのんびり温かいイメージがありましたが、ヤツらは本当は違うね!猫かぶってる。ヤツらの本質は佐田岬までのこのルート、ほかこの後愛媛県内で感じたせわしない運転にこそあると思いました。

愛媛県民!ホントは「まじめなジュース」なんかじゃないだろう!

 

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佐田岬に着きました。写真ではあまり分からないですが、岩石全般が鮮やかな緑色で、とても綺麗です。

駐車場から灯台のある岬突端までは、歩いて20分くらいはかかるでしょうか。道は舗装されていますが、結構起伏があります。途中、まだ頭上にツクツクボウシが嵐のように聞こえるエリアがあるかと思うと、足下にコロコロと秋の虫の声のみが聞こえるエリアがあったりする。岬までの短時間の道筋に、終わりつつある夏と始まった秋が混在しているようでした。

もし夜ならばと思いました。もし夜ならば、この地は虫の声と遠くに波の音、頭上に壮大な宇宙の瞬き。幻想的で素晴らしいハーモニーを聴くことができたことでしょう。

 

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雄々しくそびえる佐田岬灯台

灯台って、なんかいいですね。人格を感じる。台風とかが来てとんでもない風雨に晒されても、夜になると遙か遠くに光を送り出すわけです。嵐のなか、暗闇の絶望でその光に助けられた船乗りが、古来どれほど多くいただろうか。灯台の前に立つとそのようなことをいつも思います。

 

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そして、岬の向こうは九州。自分にとってのとても大切なかけがえのない大地は、海の向こうからはこんな風に見えました。

最近のお気に入り

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コロナで、家で辛抱という日が増えたなかで、最近のお気に入りはコイツです。↑

スピーカーのことはよく分かりませんが、コイツのはウッドコーンスピーカーとか言うそうで、優しくて、とても温かい音を響かせてくれます。

 

ポピュラー系の音楽ではそれほど差があるような気はしませんが、合唱やオーケストラ、特に少人数のヴォーカルや弦楽器、ピアノソロでは、現場の息づかいまで感じ取れるくらいのライブ感を出してくれます。

 

ジャズのこともよく分かりませんが、コイツで音出して、ちょっと美味しいコーヒーを飲んだら、自分が無口で渋い男になったような勘違いをしそうになります。

まあコーヒーの横にあるのがプリンでは、絵的にちょっとどうなのかとは思いますが。

 

↓ 別府名物?地獄蒸しプリン

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「合戦」と「戦争」

私のような歴史好きは、「合戦」と聞くとワクワクしてしまいます。

古戦場を巡るのは至福のひとときですし、城跡を訪ねるのも、とても楽しい。正直に言えば、血の匂いのしない歴史的痕跡への興味は、ほとんどありません。

 

かといって、別に私に軍国主義的な思想があるわけではなく、むしろこれからの世界は、どれだけの困難が伴おうと、時間がかかろうと、国境撤廃を中心とした世界連邦体制を目指すべきであると考える、壮大なる絶対平和主義者であります。(このような考えはおとぎ話なのかもしれませんが、理想がなければ現実が理想に近づくことはないと思います。理想は思想であり、理想を支持する人が過半を超えたときに、その理想は現実になる。理想を理想として個々人が持ち続けることの大切さを、最近強く感じています。)

 

世間も似たような感じではないでしょうか。

大河ドラマはやっぱり戦国ものが視聴率も良いようですし、戦いで「殺す」「殺される」行為が残虐で非人道的なことと分かってはいても、やはり心が踊ってしまう。それは、生物としての人間にインプットされた何かが騒ぐからなのかもしれません。

 

ところが、このような私でも「戦争」となると、どんよりとした暗い気持ちになる。川中島合戦にはワクワクするのに、太平洋戦争となるとそうはいかない。それは一つには歴史的経過時間が異なることや、犠牲となった人の多寡があるのかもしれませんが、どうもそれだけではない気がします。何が影響しているのだろうと考えました。

 

広島と長崎では、原爆投下によって合わせて20万人以上の方が亡くなったといわれています。軍属はもちろん、ごく普通の一般市民、また日本人以外にも当時日本の植民地だった朝鮮や台湾の人々、アメリカ兵の捕虜など、様々な人が一緒くたに、一瞬に、今後持つべきであった時間のすべてを強制的に消失させられました。

私は原爆投下については、戦争行為を逸脱したとてつもない犯罪行為であると理解していますし、特に広島投下から3日後に行なわれた長崎への投下については、その結果がどのようなものになるのかを広島で十分承知したうえでのもの(当時のアメリカの能力からいって、投下後の広島の状況はほぼ掴んでいたと思います。)であることから、極めて悪質な虐殺行為であったと考えています。

 

戦後75年を経過したとはいえ、未だ日本は「敗戦国」であって、「戦勝国」であるアメリカから「そもそもあの戦争は、あなたたちが仕掛けたのだ」と言われれば口をつぐむしかない。しかしながら、100年後、200年後の世界の歴史家はきっと、アメリカの、いや偉大なる人類の歴史における大いなる汚点として、この行為を判定せざるを得ないのではないかと私は思います。

 

戦争という非常行動は、人間にこれほどの狂気と行為を生じさせる可能性がある。

そして、起きた。

このような残虐性を、きっと誰もが持つ可能性がある。

その悲惨な結果を、目をそむけずに自分のこころに受け止める。

 

日本がどうとかアメリカがどうとか、原因がどうとか、そういう言い訳がましい小さな視点ではなく、起きてしまった事実に対して、未来の歴史家的な視点で現代に生きる私たちがこのことを冷静に判定し、未来に先駆けて新たな道しるべをいま世界中でつけることができたなら、犠牲になられた方へのわずかばかりの報いに辛うじてなるのかもしれません。

 

ところで話しを戻して、なぜ「合戦」はワクワクするのに、「戦争」はそうでないのか?例えばアメリカが広島に攻め込むとき竹槍を装備し、迎え撃つ日本も竹槍であったならどうか?

アメリカは闇夜に乗じて密かに広島に上陸!
・対して日本は伏兵でアメリカ兵を混乱させる!
アメリカは広島市民に向けて「コウフクシタラ チョコレート アゲマス」のビラまき!
・日本人(特に子ども)動揺!密かに敵陣へ投降してチョコもらう者続出!
アメリカ、広島を占領!

「合戦」はこんなイメージで、原爆で有無を言わせず人を消し去る「戦争」とどこかが違う。不謹慎かもしれませんが、もし太平洋戦争がこのような戦いであったならば、ワクワクを感じるのかもしれない。

同じように残虐であっても、そこに人間的な心が感じられるか、感じられないか。「合戦」と「戦争」、その違いは、結局人間が維持できる心の限界点のようなものが分かれ目になっているのだと思います。


人間は、戦いを好む生物としての冷酷で残虐な一面を本能として持っている。だから「合戦」ものが大好き。

しかしながら、その一面には限界があり、「戦争」という程の規模と残虐性には逆に戦慄を覚えて、ブレーキがかかる。また、そのことが人類の種としての存続につながっている。

この辺りで結論を持っていきたいと思うのですが、どうでしょうか。

不当・不適切と思われる表現がありますが、時代的背景と作品価値を考え合わせてそのままとしました

4連休は雨だらけでした。

久々に絵でも観ようと、初めて大分の美術館に行ってみました。有名どころが来るといった点では都会は圧倒的であり、その点大分のような地方は難しいのでしょうが、まあ絵なんて有名だから(自分にとって)良い、というものではありませんから。知らない絵を「発掘」することの方が面白かったりもします。

 

さて、ヨーロッパのある程度までの時期の絵は、神話や聖書を題材にしたものが多くて、「そんな知識や教養を持って鑑賞できたら、もっと楽しいだろうに」と思うことがしばしばあります。幸い今回の展覧会は、ある程度その辺のことも絵の横に貼り付けておいてくれたので良かったのですが、そういう神話とかのストーリーに自分の中でものすごいツッコミを入れてしまい、肝心の絵の方は中途半端にしか頭に入ってきませんでした。

 

例えばヴィーナスの誕生。絵の題材として非常にポピュラーでありますが、そもそもヴィーナスってすごい生まれ方をしてますね。ごく短く要約すると、こんな感じ。

『息子がお父さんのキン○マを鎌で切り取って、海に投げ捨てました。するとそこからブクブクと泡がわき立ち、ホタテ貝の中からヴィーナスが誕生しました』

 

いや。いやいや。

いつかあのボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」とかを観る機会にめぐまれたとしても、「ああ。この女神様は、つい直前までお父さんのキン○マだったのだ…」とか、「この息子も親父のキン○マ投げ捨てたら、まさか自分の妹が海から現れるとは思わなかったろう…」とか、そういうことばかり思ってしまいそう。私の頭がおかしいのでしょうが。

 

旧訳聖書も絵のネタに多いです。

ダビデ王とかひどいですね。部下の嫁さんに手を出して妊娠させ、このままじゃまずい、とその部下を戦場に送り出して戦死させてしまう。今回観た絵は、それを知った預言者ダビデを責めるという、まああちらの大陸では有名なシーンらしいのですが、神はその罰として、生まれた子どもの命を奪います。

 

いや。いやいや。

「え?なんで?お父さんはともかく、何でボクが神様に殺されないといけないわけ?」

 

ダビデはひどいヤツです。相手となった部下の嫁さんは無理矢理のことであり、とてもかわいそうなのですが、それでも子供が男女の共同行為の成果であるという部分で、気の毒ながら彼女にも何らかの咎があるかもしれない。しかし、罰として殺された子どもに、いったい何の罪があるというのか!

「え?なんで?」という子どものツッコミの声が頭の中で繰り返し響き渡り、こういうツッコミに対して、お笑いのプロはどのようにしてボケを返すのだろうとか思っていたら、絵が頭に入ってこなくなりました。

 

もう少し勉強して、こういうツッコミを自分の中できちんとボケ返す作業をしてからでないと、心静かに絵を鑑賞するなんてできませんね。

それにしても、ヴィーナス誕生にしてもダビデにしても、最初にこのストーリーを書いた人がいるはずなのですが、放送コードも人権とかもクソ関係ない破天荒なストーリー展開に驚きもし、その自由さをうらやましくも感じます。

歴史を旅する 中津番外編

中津から少し離れていますが、前回の記事でご紹介した宇都宮鎮房の本拠地、城井(きい)谷に足を伸ばしてみました。

 

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城井谷・・・。何となく険しい山中のうら寂しい山里のような所をイメージしていましたが、意外にも平地が広く、今でもそれなりに大きな集落が広がる一帯でした。平べったい谷の両側に山が迫る地形は、朝倉氏の居城だった越前一乗谷とよく似ています。朝倉氏は一乗谷に戦国時代屈指の城下町を作り、いざ戦争になったときには両サイドの山に籠もって戦う体制を取っていたようですが、城井谷も同様であったと思われます。

 

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谷をどんどん奥に進んでいきますと、少しずつ山深く険しくなっていき、城井谷の最終防衛拠点である城井ノ上(きいのこ)城に入ります。ここまで来るとスマホの電波も届きません。ただ、どんな地にも「有志」はいるもので、宇都宮鎮房を慕う地元民があちこちに写真の幟旗を立てていました。多分お金を少しずつ出し合って頑張っているのでしょうが、「宇都宮?だれ?」が世間のほとんどでしょう。寂しい山中で数少ない「同志」を見たようで、嬉しくなりました。

 

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城の入り口からして物々しい。「三丁弓の岩」と呼ばれる場所で、「弓の射手三名おれば敵一兵も通さず」というところから名付けられたようです。ちなみに写真の右側は川が流れていますので、城に入るにはこの岩横の狭い細道を通るしかない。確かに弓の名手にこの巨岩に潜まれては、攻める側は通り抜けるのに苦労するでしょう。

 

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城門もひどいです。人がようやく一人通り抜けられるかといった狭さに加えて、抜けたら抜けたで、その先は四つんばいにならないと進めない急な坂。いかに大軍で攻め寄せても門がこの有様では、城内に入るためには一人一人くぐり抜けるしかありません。そして通り抜けたら「殺」、通り抜けたら「殺」って具合に、一人一人やられてしまうことでしょう。

 

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門を過ぎたら、中は結構広い。相当数の兵を留めておくことができそうです。黒田軍はこういう厄介な場所で戦わなければならなかった。もし自分が黒田の大将なら、圧倒的有利な攻め手であってもこの城で嫌になって、「もう武士こりごりっす」とか言って辞表を出して、農民に天下りしそうです。

城は、この奥までずっと続いているのですが、このまま進んでいくと下手すると遭難するのではないか(スマホも通じませんし、)と恐怖を感じましたので、さっさと引き返しました。

 

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宇都宮一族のお墓は、麓の天徳寺というお寺の敷地内にありました。現代も大変生きづらい時代ですが、彼らの時代は「生き」づらいとか、そんな生きることが前提のレベルでは全然ない。「生きる」か「死ぬ」か。油断するとすぐに強制的に死んでしまいますからね。大変さが桁違いです。だから私は、このような時代に英雄として後世にまで伝えられる人々をもちろんすごいとは思うのですが、そうでなくても、このすさまじい狂気のような時間を何とか必死で駆け抜けていった人達を純粋に尊敬したい、ねぎらってあげたいと思うのです。

 

今を生きる人達もそのほとんどは、死んだら名も残らず、すぐに忘れられてしまうことでしょう。そのことが分かってはいても、それでも必死に生きるしかない。それが人の一生というものだと思います。ただ死んで時間が経てば、自分の成したことの多くは何も残らない。そこに虚しさを感じることも確かにあります。

しかしながら、忘れられたはずの過去の時間が、今を生きる自分自身に強く響く瞬間がある。今を生き抜く力強いエネルギーになることがある。私がこのような場所を訪ねたくなる理由は、こういうところにあるのかもしれず、そのことを未来の人達に託したいという思いがあるのかもしれません。時間のリレーとでも言えばよいのでしょうか。

「有志」の方々が立てた幟旗は、宇都宮一族が駆け抜けた時間が、それが十分に意味をなすものであったということを示しているのだと思います。