拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

四国超本格的にぶらぶら~慎太郎さん家(げー)

慎太郎さんの家に行ってきました。

 

 

もちろん石原慎太郎さん(元東京都知事)や、山崎慎太郎さん(元近鉄バファローズ投手)ではなく、中岡慎太郎さん(元幕末志士)の生家です。

高知県東部にある北川村という静かな山奥にありました。

 

坂本龍馬海援隊に対して、陸援隊隊長を担った中岡慎太郎

龍馬に比べると地味な印象がありますが、土佐を風雲の表舞台に立たせたのは、実質的には中岡の功績が大きいような気がします。

 

今の時代に生きていたとするなら、超優秀な外交官、外務官僚といったところでしょうか。坂本大臣は華やかで人気もありますが、細かい作業は不向きで、ポカや失言も多い気がしますしね。

歴史が派手に大きく動くときは、実はその陰にいる堅実な事務方の頑張りが大きいように思われますし、その陰の意思が時代の本流になっていくような感じがします。

 

しかしこの北川村の事務方は、女性に対しては「大臣」級だったようですな。

 

 

生家近くの記念館のそばに、中岡の写真のレプリカが飾られていました。さわやかないい笑顔っすね~!

それもそのはず、この写真の横には元々は女性が映っていたらしく、実際中岡の右足にはその女性の美しい着物が映りこんでいます。

 

頬杖をしているように見える腕も、その女性のようでして、当時超珍しかった写真を撮るということでテンションマックスになった中岡が、女性にじゃれて顔をすり寄せようとして、

「まあ、慎さま、いやどすわぁ!」(隣にいたのは絶対京女だ!)

とか言って、顔を近づけさせまいと慎さまの頬を押し返したところをパシャッ!

 

撮影したのは誰だか知りませんが、当時の写真家は上野彦馬のようなイカツイ顔のオッサンだったでしょうから、「このハナ垂れ小僧のクソが!」とか、苦虫を嚙みつぶしたようなクッサイ顔して撮ったのでしょうな。

 

 

それはそうと、慎さまはこんな小さな普通の山里から全国に躍り出た。この単純な事実に大きな感動を覚えます。

 

山深き土佐の地から日本を思い、動き、弱冠30歳で散る。

人は環境に左右される生き物であり、いくら中岡が偉大でも、突然変異の如くこのような人生を送ることになったとは考えにくい。この小さな集落に、長い時間をかけて何らかのエネルギーが蓄積し胎動して、それが時宜を得て中岡に乗り移っていった。そんな風に考えてみたい。

中岡を知るためには、この小さな地のことをもう少し調べてみた方がよいのでしょう。

 

「いや、やっぱり単に京女がよかったのかな?」

 

慎さまのファンに怒られる前に、この辺で打ち切ることにします。

 

11月ですなあ

どうも昔から、11月というのが苦手で、何故なんだろう?

 

なんか、ジワジワと寒くなってくるのが嫌なのかな?

それに加えて、どんどん日が暮れる時間が早くなってくるのが嫌なのかな?

落ち葉が風に舞い、華やいだ時間はもう終わるのだという侘しさが嫌なのかな?

 

高知にも、まもなく次の季節がやってくるようです。

 

 

「龍馬パスポート」が2冊目の「赤」になりました。

ヨソ者が高知県に住む場合、定期的にこのパスポートを更新しなければ、不法滞在者とみなされ高知県警に逮捕されるわけですが(されないよ!)、まだあまりこのパスポートの恩恵は感じてはおりません。

 

観光施設とかに行くと、このパスポートにスタンプを押してもらい、たまると次の色に切り替えられます。

 

果てしない道のりですよ。

「青」→「赤」→「ブロンズ」→「シルバー」→「ゴールド」→「殿堂入り」。

殿堂入り後も、初段~十段まであって、やっと「免許皆伝」。

 

単にスタンプを集めればよいということでもなく、たとえば「ブロンズ」から「シルバー」に進むためには、高知県内に7泊しなければクリアしないという厳しさ。

わたくしがいつまで高知にいるかは、我が職場の人事係のみぞ知る、ではありますが、まあ次の「ブロンズ」が精一杯でしょうかな。

 

11月は坂本龍馬の誕生月であり、暗殺された月でもあります。(同じ15日。)

毎日、少年時代の龍馬が泳ぎ、山内容堂が時世を案じつつ眺めていたであろう鏡川の横を通って出勤し、吉田東洋が暗殺された場所で借りた本を返し、武市半平太切腹した場所でビールを買って帰る。

 

ときどき、今本当にここにいるのだということが信じられないような、ふっと我に帰る瞬間があります。

高知に赴任して2か月ちょっと。ここでの仕事も楽なものばかりではありませんが、在りし日の土佐人の背負った仕事に比べたら、自分は楽だな~と思う日々。

 

歴史好きで、本当に良かったと思います。

 

四国超本格的にぶらぶら~新守護神を任命します

新居の近くに、潮江(うしおえ)天満宮という神社があります。高知市中心部に近いこともあって、初詣とかでは結構な人が来られるようです。

天満宮ですから、全国津々浦々ある天神様(菅原道真)の単なる祠の一つかと思っていましたが、ここのはちょっと事情が違うようですね。

 

 

わたくしもあまり詳しくはないのですが、道真公には高視(たかみ)という息子がいて、父の道真が大宰府に左遷されたときに、息子の方は土佐に流されて、この潮江天満宮の近くに住んでいたみたいなのです。

道真公がかの地で無念の死を遂げたあと、その家臣が土佐にいる息子のもとに遺品を届けた。それらを祀ったのが、ここ潮江天満宮の起こりのようです。

 

余談ですが、最近「道真が大宰府に行かされたのは、左遷とは言えない」とかいうことを本気で言っている歴史学者とかおられるようです。「彼の大宰府での役職が高い」ことがその理由の一つであるみたいな論調をちらっと読んだ気がするのですが、だったらなぜ息子まで土佐に飛ばされているんですかね?

 

歴史学の使命が、過去の時間を現代に蘇らせることであるとするならば、それを専門に学問する方は、一度学校社会を出て、たとえば40歳くらいまでは学問とは別の普通の社会の人間関係に揉まれて、人の何ごとかを体感する必要があるのかもしれません。

過去も現代も、人間そのものは大きく変わっているようには思えません。その面白さとくだらなさを知っていたら、このような論は出ないような気もします。

 

天満宮に牛は必須アイテムですな

 

それはそうと、わたくしにとっては高知での新守護神の人選、いや神選の方が大事です。

お父さんの道真公が直接のゆかりではなく、高視さんが由縁となるこの神社、ちょっと頼りないような気がしますし(高視→失礼な!)、今さら学業もクソもない年齢なのですが、まあ縁あってのご近所ですし、ここを高知でのわたくしの新守護神に任命したいと思います。(高視→そんな勝手な!)

 

大分のときの火男火売(ほのおほのめ)神社は効いたからね。

そこんところ、ちゃんと分かってるよね、高視さん。(高視→おめえなんか知らん!)

 

いや、あんたもある意味転勤族なんだし、色々と分かるでしょ。

しばらく見守っててくださいよ。

 

四国超本格的にぶらぶら~高知の街

転勤が決まって初めて知ったことは、高知県が日本で鳥取、島根の次に人口が少ない県だということでした。

鳥取、島根は、まあある意味で有名ですよね…。スタバがなかなか出店しないことを自虐ネタで楽しませてくれたり、最近はそこをウリとするようになってきています。

 

高知は意外。

南国にあって人寂しい印象を受けないせいか、また歴史上の人物も騒々しく、肝の太い英雄どもにあふれているイメージがあるせいか、あまりそういった感じを受けません。

でも実際、県全体で60万人台の人口で、県庁所在地の高知市でも30万人ちょっとしかいません。かなり少ないです。

 

 

けれど高知市中心部は、結構なにぎやかさです。

やたらと広範囲にアーケードが張り巡らされていて、行きかう人も多い。

地方では、中心部のアーケード街がシャッター通りと化す町が多い中で、高知市内では昔ながらの昭和チックなお店がたくさん健在で、それなりの活気もあって嬉しくなります。

 

アーケードの外側では、日本一古い歴史と営業距離を誇る路面電車が、電気のモーター音をけたたましく唸らせて、ゴトゴトと車輪音を響かせて行き来をします。この風情も好きです。

 

そして、飲食店の数!

いや、この人口でこんなにも飲み屋必要かね?というくらい、びっしりと飲み屋。

普通の住宅街とかでも、コンビニやスーパーはなくとも、飲み屋は一定区画ごとに必ず設置されておる!

スーパーでも、お酒コーナーは異様な充実ぶり。高知人は一体どれだけ酒を飲むつもりなのか!

 

わたくしの地元鹿児島も飲むイメージがありますが、ここまでではない。

この感じ、どちらかというと鹿児島本土よりも、奄美大島の雰囲気に似ている気がします。どちらもお顔や体つきがどっしりとしていて、DNA的に近いのかなという印象があります。

高知と奄美。場所は遠く離れていても、同じ黒潮街道沿いですし、長い人類史の視点でいえば意外にご近所さんなのかもしれません。

 

 

毎朝、職場に近づくと、現存12天守の名城、高知城が見えてきます。

これを見ると、やる気の起きないだるい日でも、多少背筋が伸びるような気がします。

わたくしも薩摩人のはしくれ。

土佐の豪傑どもに負けないように、適当に仕事をしたいと思います。

 

四国超本格的にぶらぶら~新しい住まい

どういう縁か、ブログで四国のことを書いていたら、9月から転勤で高知に住むことになりました。こういうことって、あるんですね。(普通ないよ!)

というわけで、これから超本格的に四国をぶらぶらします。

 

なにぶん、土地カンがまったくない高知市に住むことになったので、不動産屋の勧める候補物件から「えいっ」と選ぶしかありません。ほとんど運です。

自分の住まう新居がどのような場所にあるのかは、実際に引っ越してから知ることになります。

 

  


早速近所を探索しました。

どうやら、わたくしの新しい住まいは、板垣退助先生と、後藤象二郎先生と、片岡健吉先生がお生まれになった近所のようです。

 

これは高知城下の立地でいえば、「上士」の家柄ではないか!

龍馬さんなどには悪いが、「下士」とはちくと違うぜよ!

不動産屋、グッジョブぜよ!

 

ところが、引っ越した当日からちょっと気になっていたのですが、わたくしの新居は、かの先生方のお生まれになった地から鏡川という川を渡った対岸にあるのです。この川の存在とは、一体なんだろう…。

そしてベランダからは、なんだか目の前に山も見える。この山の存在とは、一体なんだろう…。

 

近所の天神橋と筆山(ひつざん)

調べてみましたら、職場と新居を結ぶこの橋は、はるか江戸時代から掛かっていたようで(もちろん現在のは作り代えですが)、かつてはお殿様しか渡ることができなかった由緒ある橋だそうです。

橋の向こうに見えるのは、筆山という山。

平地にぽっつりと浮き上がった、戦国時代とかだったら間違いなく城にするよね、といった按配の小高い丘陵がそびえています。(実際、南北朝合戦のときには、南朝方が立てこもったりしているようです。)

 

実際の山と、川に映った山の形を合体すると筆の穂先に似ているから「筆山」だそうな

 

この筆山が何なのか近寄ってみましたら、意味がよく分かりました。

この山、山内家のお墓があるんですよ。近くには菩提寺もありました。この橋は、山内家代々の殿様が墓参り専用に使ったものでした。

 

 

 

橋の手前は高知城下。橋の向こうはお墓。

間を遮る鏡川は、言わば三途の川で、結局、今回のわたくしの天命とは、あの世側にある筆山の山内家の墓守をすることのようです。

今回の唐突な転勤の謎が分かりました。

 

これから毎日、あの世とこの世をさまよいます。

 

四国本格的にぶらぶら(番外編)

高知で、今さらながらに戸次川合戦の様々な状況を仕入れてきたので、大分に戻ってからブラついてきました。

 

 

奮戦むなしく討ち取られた長宗我部信親終焉の地は、大掛かりな石碑が最近建てられていたようです。

 

 

 

子孫の方や大分地元有志の方が中心になって、建立されたようです。

ちなみに、長宗我部氏は大坂の陣で当主盛親が斬首された後、姓を変え、江戸期を通じて「長宗我部」を名乗ることはできなかったみたいです。明治になってようやく復姓できました。

近くには、長宗我部信親の墓や、付き従った十河一族の慰霊碑があります。

 

そもそも戸次川で合戦が行われる発端となったのが、川岸近くの山べりにあった鶴賀城をめぐる攻防でした。

 

  

 

豊薩合戦(大友氏と島津氏の戦い)では、その時点での大友氏の衰弱ぶりもあって、島津氏が一方的に勝ち進んでいった印象がありますが、局地戦では大友軍は頑張っています。

ここ鶴賀城でも、城主・利光宗魚の奮戦により島津勢は足踏みを余儀なくされ、島津氏の九州統一を結果的に阻んだ要因の一つになったものと思われます。

 

話がどんどん脱線しそうなので、長宗我部氏の運命を狂わせた呪われた川(地元の方すみません)の写真を最後に掲載して、このシリーズお開きにします。

 

 

四国本格的にぶらぶら(4)~幕末の土佐

土佐といえば、龍馬。

今もって、ニッポン男子の心を熱くする幕末英雄譚の主役ともいうべき人物です。

 

桂浜に立つ坂本龍馬

 

龍馬は、今も変わらず日本歴史上の特筆したヒーローであり続けていますが、その人気に間違いなく一役買っていると思われるのが、この桂浜の龍馬像だと思います。
完成からすでに100年近く経過していますが、遥か太平洋の彼方を静かに見つめる龍馬の表情が印象的で、とても魅力のある像です。

 

さて、幕末の土佐には、龍馬以外にも様々な人物が躍動しますが、その中で多少「変わり種」と私が感じているのが、ジョン万次郎です。

龍馬をはじめ、幕末の多くの志士たちは、自らの意思で火中に飛び込み、そのほとんどが中途で斃れてしまいました。その悲劇性に、後世の私たちは熱いロマンを感じるわけですが、万次郎の不思議さは、「アレ?なんかオレ、歴史に関わっちまった?」という偶発性にあります。

 

足摺岬に行った帰りに、彼の生まれた集落に立ち寄りました。

 

 

漁師、万次郎。

名字すら持たなかった普通の少年は、普通に漁に出て、とんでもない歴史の大波に出くわします。その結果、彼は、不運と幸運とが交錯する運命の荒波に立ち向かい続けなければなりませんでした。その波を一つ一つ懸命にくぐり抜け、劇的な人生を作り上げていったのです。

 

きっかけは、漁の途中での遭難。

遭難自体はとんでもない不運ですが、幸運にも無人島に何とか辿り着く。さらに幸運は続き、そこで数か月間を奇跡的に生き延び、偶然立ち寄ったアメリカの船に見つけてもらいます。

しかし、このころ日本は鎖国状態。アメリカ船が日本の港に着岸して万次郎たちを送り届けることはできません。せっかく助かったのに、日本に帰れないとは何たる不運…。

ただ、彼の資質は、まるで最初からこの運命を受け入れる準備をしていたが如く、彼に相応しい人生の幸運を手向けます。

 

帰れる場所がなく、アメリカに渡った万次郎。

この地で様々な経験を経ていくうちに、故国日本そのものが世界の大波に洗われ、変化せざるを得ない状況になっていきます。やがて帰国を果たしますが、本来であれば鎖国の禁を犯した重罪人となるべくところ、世界を知る貴重な日本人として遇されることになりました。

 

帰国後は幕府の旗本に取り立てられ、航海術や英語の教授をしたり、外交使節団の一員に加わったりと八面六臂の大活躍をします。当時の日本で、万次郎の代わりになる人材はなく、当然のことだったのかもしれませんが、それだけの能力を彼が備えていたということが、とても重要な要因であると思われます。

 

写真にある万次郎の生家跡は、後世の再建らしいです。夕方遅くに行ったので、地元の集落の方が戸締りをしていたのを、わざわざまた開けてもらって覗かせていただきました。

これまで高知出身の方とは、仕事関係で若干関わりがあったのですが、言葉はみなさん標準語に近く、ドラマで聞くような方言は無くなったのかなと残念に思っていましたが、戸締りのおっちゃんはバリバリのボリボリでした。

 

万次郎のことにすごく詳しく、色々と楽しくお話をお聞かせいただいたのですが、4分の1くらい内容が分からんかった!(その方が近所の別の方と話す内容は、8分の7くらい分からなかったので、相当気をつかって話していただいたのだと思います。)

でも、そのことがとても嬉しく感じましたし、方言って内容が分からなくても、とてもあたたかく優しく感じられます。大切に残してもらいたいです。

 

高知から帰るとき、梼原(ゆすはら)を通りました。

 

 

「脱藩の道」で有名になった梼原の集落は、山あいの小さな村でした。

 

へんぴなと言ったら、地元の方は気を悪くされるかもしれませんが、こんな山の中にも、大きな時代のうねりが押し寄せてきた。若者たちは村の方々で語らい、大きな使命感を持ってこの地を旅立ち、日本の運命に立ち向かって行った。

そのほとんどが無私であり、頼まれもしないのに命を捨てた。おそらくは、このとき日本のあちこちに「梼原」があり、その後の日本を決定づける胎動がそこかしこで起きていたのだと思います。

雨で静まり返った梼原の集落にポツンと立っていると、彼らにとっての未来を引き受けているはずの自分の姿はあまりにも頼りなく、申し訳ないような気がしました。