コロナもまだ微妙な時期ですが、どうしても見ておきたくて、太宰府の九州国立博物館まで行ってきました。
お目当ては、中宮寺の国宝「菩薩半跏思惟像」。
↑ お土産で買ったマグネット(くまモンは違います)
いい仏様だね~。さすがは飛鳥時代の最高傑作といわれるだけのことはある。
年を取るのも悪いことばかりではなくて、若いときには分からなかった良さが、分かってくることもあります。「得も言われぬ」とは、まさにこのようなものを指す言葉なのでしょうが、「得も言われぬ」という言葉の真の意味は、若いうちには理解できていなかったかもしれません。
角度が変わると、仏様の表情も変わる。角度が変わることで、仏様の様々な心の内が見えてくるような気がしました。
正面から拝観すると、私だけに慈しみの微笑みを投げかけてくれているような気がして、それはそれは心が安んじてとても良いのですが、横から眺めると、その眼差しの向こうにある人々との心の関係が見えてくるようで、また別の感情が湧いてきます。
いまこの瞬間も大勢の人に囲まれている目の前の仏様は、千数百年前から同じように大勢の人々に囲まれて、同じように得も言われぬ微笑みを与え続けてきた。生まれては死に、生まれては死に、入れ替わり立ち替わり、移りゆく人々の変わらぬ儚さと変わらぬ嘆きを、一体どのように受け止めてこられたのか。
取り巻く人々は、随分変わっていったであろう。
たとえば室町の世の頃、泥にまみれたボロを着た、痩せこけた地侍がふらりと現れ、「極楽浄土」をうっかり覗いてしまった心持ちになった様を、やさしく見ていたかもしれない。明治の廃仏毀釈のときには、一転憎悪の対象となり、仏像を破壊しようとする人々、守ろうとする人々との壮絶な闘いの様を、ただ静かに見ていたかもしれない。
今日ここに来ている人々は、どうか。私はどうか。今どのように眺めておられるのか。
それでも人々は、変わっていないであろう。
どの時代であっても、生きることは大きな不安であり、何か特別な存在に守られていたい、守られていることを信じていたいという思いは変わってはいないのではないか。それが古今東西によらず、人々の変わらぬ心ではないのか。
もう一度仏様の顔に目をやると、変わらず親が子を慈しみ守るような、やさしい表情をされていました。
でも、不思議ですね。この仏像を作ったのも、まぎれもなく人であり、その意味では、美術館に並ぶ「作品」と同じなのです。それでも「作品」には見えない。
この微笑みは、仏の御心というものは、結局は人の心の中にあるもので、像はその心を掘り出したものに過ぎない。このような傑作を仏像として作りだした人の心のなかにこそ、仏はいる。
そして、その仏様を尊いものとし、人々は代々この像を大切に守って次の時代に引き継いでいった。かつてのきらびやかな装飾は剥げてしまって、真っ黒な肢体になってしまっても、変わらぬ思いで守り続けてきた。千数百年間にわたる人々の心のリレーにこそ、仏はいる。
目の前に立っている像が、ただの「作品」に見えないのは、このような人々の心のなかの仏を、私自身の心のなかの仏が感じ入っているからなのかもしれません。
私は神仏への信仰心とかはあまりない方なのですが、神仏の尊さとは、つまりは人の心の尊さであると思うことがあります。信仰とは、宗教の種類を問わず、過去の尊い心とそれを連綿と引き継いできた人々の心の尊さに、今の自分の心が共鳴していることなのだといえるのではないでしょうか。
それぞれが大切にする、いわば縦の時間の関係が信仰である。だから横の時間の関係である、つまり同時代を生きる人々の間で、それぞれが大切にしている縦の時間をお互いに侵害してはならない。信仰心がうすい私でも、強くそう思うのです。
信仰する人々の心こそ、神仏そのものである。しかしながら、心のなかには鬼もいる。尊い神仏は、ときには畜生にも劣る鬼になる。
今日見た仏様は、そのような人々の心をも見透かして、ただ微笑んでおられるような気がしました。