拙なる日々

コロナウイルス対策の一環としての暇つぶしです。

燃え尽きた闘魂

猪木は、死んではならない人だった。

 

アントニオ猪木がプロレスラーとしての現役を引退して、すでに四半世紀が経過しているにもかかわらず、もうすぐ80歳を迎える「おじいちゃん」であったにもかかわらず、訃報のニュースでしばらく世間は一色になりました。

 

プロレスというのは、手品のようなものだと思います。「タネ」も「シカケ」もある。(なければ、きっと体がもたない。いくら屈強なファイターでも。)

あるけれど、マジックショーを見に来ている観客が、「タネ」と「シカケ」がある(と大部分の人は分かっている)マジックの成功に感嘆の声をあげるような何かが、プロレスラーと観客の間にもあって、大いに喝采を捧げる。

この「ホント」とも「ウソ」とも区別のつかない曖昧さが、プロレスの魅力だと思います。

 

ただプロレスの複雑なところは、色々な理由から時折セメントマッチ(真剣勝負)が行われることもあるようで、だから結局のところは本当に強くなければ「タネ」も「シカケ」も作れない。

ここらあたりにファンは困惑し、魅了され、熱狂するのだと思います。

 

アントニオ猪木は、人生そのものがプロレスだったように感じます。

ブラジル移民の身から当時のスーパースターであった力道山に見出され、団体の看板レスラーとなって活躍し、やがて追放される。新たな団体を自ら作って大成功を収め、しかし花形の所属レスラーに次々と「クーデター」を起こされ、裏切られる。

 

プロレスの傍ら様々な事業を華やかに展開し、多くは失敗。レスラーとして峠を過ぎたころには国会議員となり、私生活では4度の結婚。

リングのみならず、世間に対しても様々な技を繰り出し、時には倒し、時にはなぎ倒され、また立ち上がって、また倒され…。自らの体に生じた病という最後の強敵に対しても、リングに上がっていたときと同じように世間に闘う姿をさらけ出し、散っていったように思われます。

 

プロレスを手品と例えるなら、その存在意義はどこにあるのか?

観客は、「タネ」と「シカケ」を暴くために来ているのではない。明日も手品を、すなわちアントニオ猪木という稀代のマジシャンの華麗なるテクニックを見るために試合会場に押し掛けるのである。

プロレスの存在意義とは、その期待に応えることであり、猪木は引退してからも、一人その期待にこたえ続けた。

だから猪木は、死んではならない人だったと思うのです。

 

世間そのものも、プロレスと似たようなものじゃないですか。

政治だって、会社とかの組織だって、家族・親戚とかご近所付き合いだって、結局同じ。「ホント」とも「ウソ」とも区別のつかない曖昧な世間を、本当は「タネ」も「シカケ」もあると分かっているのに、ジタバタともがくしかない。

でも、ほとんどの人たちは、猪木にはなれない。「猪木ならば…」。そういう人たちの想いを、猪木は最後まで引き受けてくれていたのかもしれません。

 

もう、こういうタイプのスターは、今の日本からは出てこないように思われます。

猪木さん、本当にお疲れさまでした。